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東京地方裁判所八王子支部 昭和63年(ワ)1134号 判決 1994年10月24日

原告

藤原輝夫

原告

鈴木志圖男

原告ら訴訟代理人弁護士

斎藤展夫

仁藤峻一

盛岡暉道

竹中喜一

被告

ミツミ電機株式会社

右代表者代表取締役

原口高

右訴訟代理人弁護士

河村貞二

主文

一  原告らの各請求をいずれも棄却する。

二  訴訟費用は原告らの負担とする。

事実

第一請求

一  原告らが被告に対して雇用契約上の従業員たる地位にあることを確認する。

二  被告は、原告藤原輝夫に対し金一二九万七五二六円、原告鈴木志圖男に対し金一二九万一八二七円及び昭和六三年六月一六日以降毎月二六日限り原告藤原輝夫に対し金三三万九一五〇円、原告鈴木志圖男に対し金三三万四五二〇円の金員を支払え。

第二懲戒解雇通告等に関する当事者の主張

一  原告らの主張

1  被告(以下「会社」ともいう。)は、電気機械器具等の製造、販売を目的とする株式会社であり、肩書地に本社を有し、調布工場、厚木工場でそれぞれ生産加工を行なっている。

原告藤原輝夫(以下「原告藤原」または「原告藤原執行委員長」ともいう。)は、昭和四一年三月三〇日に、原告鈴木志圖男(以下「原告鈴木」または「原告鈴木調布支部支部長」ともいう。)は、昭和四三年三月二七日にそれぞれ会社に雇用された。

2  会社は、昭和四六年七月九日、原告らに対し、懲戒解雇を通告した(以下「本件解雇」ともいう。)。

3  しかし、原告らに対する本件解雇は無効であり、原告らは一貫して労務の提供を申し出てきたのに、被告はこれを拒否してきたから、原告らは被告に対し、賃金支払請求権を有する。

原告らは、昭和五一年七月一二日、雇傭契約上の地位を保全する旨の仮処分判決を受け、その後賃金改訂等に応じて賃金仮払い仮処分決定を得たことにより、被告から、昭和六三年三月三一日分までの賃金等の仮払を受けた。右解雇通知後の仮処分決定で認められた賃上げ分等を加えると、昭和六三年六月における原告藤原の賃金は月額金三三万九一五〇円、原告鈴木の賃金は月額金三三万四五二〇円であり、いずれも毎月二六日払いであった。

したがって、原告らの昭和六三年四月一日以降同年六月二二日現在の未払賃金額は、<1>昭和六三年四月二六日支給分残額(四月一日~一五日分)、<2>五月二六日支給分、<3>賃上げ差額分、<4>夏季一時金分の総和であり、原告藤原が<1>金一二万八二三六円プラス<2>金三三万九一五〇円プラス<3>金二万四一一五円プラス<4>金八〇万六〇二五円の合計金一二九万七五六二円、原告鈴木が<1>金一一万二〇三〇円プラス<2>金三三万四五二〇円プラス<3>金五万二八一五円プラス<4>金七九万二四六二円の合計金一二九万一八二七円となる。また、昭和六三年六月二六日以降毎月二六日毎に原告らが支払を受けるべき賃金額は、原告藤原が金三三万九一五〇円、原告鈴木が金三三万四五二〇円である。

二  被告の認否

1  原告主張の1、2の事実は認める。

2  同3の事実は争う。

第三解雇理由等に関する当事者の主張

一  被告の主張

1  別紙一記載の事実(非違行為)があった。

2  原告藤原は、ミツミ電機労働組合(以下「組合」という。)が昭和四六年に行なった賃上げ等要求闘争(以下「四六年春闘」ともいう。)において、組合の執行委員長として、別紙一<1>ないし<40>記載の闘争を指導し遂行するとともに、自らも、別紙一<5>、<7>、<8>、<10>、<12>、<22>、<25>、<26>、<31>ないし<33>、<38>ないし<40>記載のとおり、現場における率先指導実行行為を行った。

また、原告鈴木は、四六年春闘において、組合調布支部の支部長として、別紙一<1>ないし<20>記載の本社及び調布工場における闘争を指導し遂行するとともに、自らも、別紙一<3>ないし<14>、<16>記載のとおり、現場における率先指導実行行為を行った。

3  会社の就業規則五九条四号、五号、一三号は次のとおりである。

就業規則五九条 つぎの一つにあてはまるときは、ゆし退職、またはちょう戒解雇とします。事情によっては減給または出勤停止にすることがあります。

四号 暴行やおどし、そのほか不当な手段をつかってほかの人の仕事を妨げ、または妨げようとしたとき。

五号 会社や、ほかの人を中傷して信用を失わせたり、名誉を傷つけたとき。

一三号 そのほか、それに準じた行いのあったとき。

4  就業規則五九条の適用関係

(一) 現場における率先指導実行行為

(1) 入構(就労)・入出荷に対する阻止妨害行動による業務妨害については、就業規則五九条四号(以下同条の号数のみを指摘する)

(2) 会社施設内への不法侵入・泊り込み、会社施設の不法占拠・不法使用による業務妨害については四号、一三号

(3) 集団または単独による暴行ないしは暴力による業務妨害(たとえば、保安業務を遂行している者に対する暴行による妨害行為)については四号

(4) 会社の物件(たとえば、自動車)に対する毀損・破壊などの手段による業務妨害については四号

(5) 会社の施設・物件等に対するビラ無断貼付行為による業務妨害については四号、一三号

(6) 会社施設に対する赤旗・立看板の無断設置による業務妨害については四号、一三号

(7) 会社施設内におけるデモ・無断集会などによる業務妨害については四号

(8) その他の手段(たとえば、朝礼妨害、カメラ奪取による撮影妨害・立入禁止表示看板・張縄等無断撤去による会社による通告表示の破棄等)による業務妨害については四号、一三号

(9) ビラによる中傷については五号

(二) 組合の幹部(本部または支部の執行機関の構成員)たる地位において組合の組織を利用して組合員等をして前記(一)(1)ないし(9)の行為を遂行させた指導行為については一三号

5  本件解雇の理由について

(一) 本件解雇の正当性

本件解雇は、組合が昭和四六年に行なった賃上げ等要求闘争(四六年春闘)において、原告らが別紙一記載の各闘争行為(以下「本件闘争」ともいう。その各行為については別紙一の項目に付した<1>ないし<40>の番号によって「事件<1>」などという。)を指導、遂行し、あるいは現場において率先指導実行行為を行なったこと等を理由とするものである。

本件闘争は、いずれも労働組合の正当な争議行為の範囲をはるかに超える悪質、違法なもので、会社に甚大な損害を与えたものであるから、その指導、実行の中心となってこれに関与した原告らに対し、会社がその規律維持のため懲戒解雇をもって臨んだのは当然である。

(二) 本件闘争の違法性

本件闘争は、会社の再三、厳重な抗議、警告、制止を無視し、集団で、会社の工場を一〇日間以上にわたり連続して占拠し、その門扉を実力支配下においてほしいままにこれを閉塞し、さらに、門の前後に集団のスクラムを組んでその地域一帯を占拠して、会社の職制や非組合員等の就労のための入構を不能にし、製品、部品、資材、機械その他の諸物件の入出荷をも連日不能にし、前後約一〇日間にわたって非組合員による会社の操業を完全に不能にしたものである。のみならず、本件闘争は、集団または単独による暴力ないし暴行(例えば、保安業務を遂行している者に対する暴力)、会社の物件に対する破壊行為(例えば、会社の通勤用バスに対する潜行的な破壊行為)、会社の施設、物件に対する無断ビラ貼付とそれに名を借りた潜行的な破壊行為(鉄製部分の塗装の剥離と鉄の下地の発錆)、会社施設に対する赤旗、立看板の無断設置及び会社施設内の無断デモ、集会、その他の集団暴力(例えば、朝礼妨害、カメラ奪取による撮影妨害、立入禁止表示看板や縄張り等の無断撤去による会社通告の破棄)等とこれらによる会社業務の妨害、ビラによる会社及び会社幹部に対する中傷誹謗等を含むものであり、会社に対し、業務上重大なる支障と甚大な損害を与え、その名誉、信用をも傷つけた。したがって、本件闘争が、正当な争議行為の限界を著しく超え、違法な闘争手段として会社の規律を紊乱したことは、その手段方法の観点から見ただけでも明らかである。

(三) 責任追及の必要性及び原告らの情状

本件闘争の悪質、違法の程度が極めて高いことを考えると、これを指導、遂行し、あるいは現場において率先指導実行行為を行なった者の責任は極めて重大である。会社は、本件闘争によって破壊された規律を回復し、維持確立するためには、その責任の所在を明らかにせざるを得ない。そこで、会社は、四六年春闘における違法争議行為ないし規律紊乱行為のうちから、重大かつ明白なものとして本件闘争を取りあげ、これを指導、遂行し、あるいは現場において率先指導実行行為を行なったことを理由として、原告ら二名を含む一五名を処分対象者とし、その責任に関する情状に応じて、原告ら、訴外吉田和男、同有坂正一、同小川猛夫及び同小原昇の六名を懲戒解雇、訴外小美濃勝、同福島喜勝、同山崎芳広の三名を六か月の減給(一か月当たり基本給月額の一〇パーセント減額支給)、訴外山口実、同池内大明、同森田芳昭の三名を三か月の減給(内容は右と同じ)、訴外深井宗吉を一か月の減給(内容は右と同じ)の各処分をした。原告らに対し懲戒解雇処分を選択した情状は、以下のとおりである。

(1) 原告藤原について

原告藤原は、組合の執行委員長という最高指導者として組合の悪質違法の争議行為の企画・決定・指令に参画するとともに、組合の指揮命令系統を利用して組合員等を指導・煽動して組合全体としての悪質違法の争議行為を遂行した。また、自ら現場に臨んで率先指導を行ない、かつ、自らも率先実行しその実行を通じても多くの組合員等を指導・煽動して、その悪質違法の争議行為を強力に遂行した。その情は極めて重大で、懲戒解雇もやむを得ないものである。

(2) 原告鈴木について

原告鈴木は、組合の調布支部支部長という同支部最高指揮者として同支部の指揮命令系統を利用して、同支部の組合員及び厚木からの応援組合員等を指導・煽動して同支部全体の悪質違法の争議行為(厚木工場におけるそれと比較して、内容・程度においてはるかに悪質であった。)を遂行した。また、自ら現場に臨んで率先指導を行ない、かつ、自らも率先実行しその実行を通じても多くの組合員等を指導・煽動して、その悪質違法の争議行為を強力に遂行した。その情は、原告藤原に次いで極めて重大で、懲戒解雇もやむを得ないものである。

二  原告らの認否及び反論

1  別紙一記載の事実に対する認否等は、別紙二記載のとおりである。

2  被告主張2、4、5の各事実は否認し、争う。

3  被告主張3の事実は認める。

4  反論

(一) 就業規則該当性の欠如

(1) 会社は事件<1>ないし<40>において、しばしば原告らが「会社の規律を紊乱した」と主張するが、「会社の規律紊乱」自体は、就業規則五九条四号には該当しない。

(2) 就業規則五九条四号にいう業務妨害とは、個人的な行為、従業員としてあるまじき行為によって他の従業員の業務を妨害することを指す。

したがって、会社の主張する「入構(就労)・入出荷に対する阻止妨害行為」あるいは「集団または単独による暴力ないしは暴行(例えば保安業務を遂行しているものに対する暴行)」については、組合活動の一部として、ないし争議行為として行なうものは、すべて同条項にはあたらない。仮に同条項がこれをも含んでいるとしても、争議中の組合員が適法なピケッティングによって一時的に入構・入出荷を阻止することや、争議中の組合員の適法な集団行動または消極的な一時的抵抗を業務妨害とするのは許されない(労働基準法一条二項、八条)から、同条項はその限りで無効である。

また、会社の主張する「会社施設内への不法侵入・泊り込み・会社施設の不法占拠・不法使用」、「会社の物件(例えば自動車)に対する棄損、破壊」、「会社の施設・物件等に対するビラ無断貼付」、「会社施設に対する赤旗、立看板の設置」、「会社施設内におけるデモ、無断集会」は、いずれもそれ自体が業務妨害ではあり得ない。

さらに、会社が「その他の手段(例えば朝礼妨害・カメラ奪取による撮影妨害、立入禁止表示看板や張縄等の無断撤去による通告表示の破棄等)による業務妨害」として例示するものは、すべて組合の争議行為に対する会社の対抗手段として行なわれたものばかりであり、これら会社の争議行為に対する組合の抵抗は、せいぜい労使の争議慣行無視ないしルール違反の問題であるにとどまり、五九条四号にいう業務妨害には含まれない。

(3) したがって、会社が事件<1>ないし<40>の各事実中で掲げた行為は、いずれも就業規則五九条四号に該当しない。

(二) 争議責任追求の不当性

原告ら組合幹部個人の責任を追求することは許されない。すなわち、会社は、原告らの違法な争議行為の指導、遂行を懲戒事由とするが、組合幹部の意思ないし行動は、組合の機関としてのもので個人的な行動ではなく、本件における原告らの争議行為の指導も、すべて組合の意思に基づく団体行動であって個人的行為に還元できないものである。したがって原告ら個人に責任を問うことはできない。また、会社は、原告らが個別に違法争議行為を実行したことをも懲戒事由とするが、争議行為は、使用者の指揮命令からの離脱において初めて成立するものであるから、服務規律によって企業秩序の確立する基礎自体が失われているのであって、外見上服務規律に違反する行為であっても、これをもって懲戒事由とはなし得ない。原告らの本件争議行為中の各行為は、いずれも組合の行為として必要不可欠のものであり、会社の指揮命令権の及ばない争議行為であるから、これについて懲戒処分を行なうことは許されない。

第四解雇権の濫用、不当労働行為に関する当事者の主張

一  原告らの主張

1  解雇権の濫用

本件解雇は、以下のとおり、解雇権の濫用である。

(一) 争議行為の正当性

争議行為の正当性の限界は、争議行為の主体、目的、対象、会社からしかけてきた攻撃手段の規模、破壊性の大小等によって変動するのであり、会社の攻撃手段が強大で不当違法の要素が多いほどこれに対抗して行なわれる争議行為の正当性の限界も拡張される。

この観点から四六年春闘における争議行為をみると、組合の争議目的は経済要求(賃上げその他福利厚生要求)であり、手段も、会社の攻撃手段に対抗し、争議目的を達成するために必要最小限の行為であった。四六年春闘における組合の争議行為は、すべて正当なものである。

(1) スト・ピケ闘争の必然性とその目的

会社は、組合を労使関係上対等に取り扱おうとする姿勢を全くもっておらず、団交における話合いを拒否し、一方的な回答を押しつける組合否認の態度に終始した。しかも、会社は、全面ストライキに先立って社外生産体制を作り始め、今にもロックアウトが行なわれるという情勢であった。そのため、組合としては、闘争戦術を強める必要があり、全面ストライキを計画したのであるが、既にミツミ電機新労働組合(以下「新組合」ともいう。)は妥結しており、右のストライキをただ行なっても職制や新組合員、非組合員が就労しようとすることは必至であり、そうなれば事実上スト破りが行なわれてストライキの効果が減殺され、一発回答を押しつけようとする会社の方針を打破することができないことは明白であった。組合にとって、もし組合がそのまま一発回答に押し切られれば、組合の存在意義が問われ、組織が切り崩され、壊滅に至るという危機的状況であった。かかる経過と状況のもとにおいては、組合の組織状況(当時、調布工場では、組合員約一一〇〇名、新組合員三〇〇名、非組合員及び職制約六〇〇名であり、厚木工場では、新組合員はなく、組合員約一一〇〇名に対し、非組合員及び職制が約一〇〇名であった。)からみて、特に調布工場については、組合が単にストライキを行ない、ウォーク・アウトしただけでは、会社は、新組合員、非組合員、職制を就労させて操業を継続することができることは明らかであり、そうなれば、会社が操業低下による打撃を余り受けないというにとどまらず、かえって操業の継続による組合員の動揺と不安は高まり、組織が切り崩される事態となることは明白であった。そこで、組合は、全面ストライキとともに、事実上のスト破りである会社の操業を阻止しなければならず、工場の門でピケットを張り、職制、新組合員、非組合員の就労を阻止し、社外生産体制の確立やロックアウトを阻止し、ストライキの効果を大きく発揮させようとしたのである。それは、賃上げ要求を勝ち取るだけでなく、会社の組合否認とそれに基づく攻撃から自らの組織を防衛するための闘いであった。かくして、組合は、五月二四日以降、特に調布工場において大規模なピケッティングを反復して行なったのである。なお、厚木工場におけるピケッティングは、小規模で時間も短かったが、それは、同工場では前記のとおり組合の組織率が圧倒的で新組合もなかったので、ストライキ自体によって会社の操業を阻止することができ、またその敷地の状態からしてストライキ・ピケッティング中でも職制が自由に入構することができた関係上、ピケッティングが操業阻止を目的とするのではなく、会社や部外者に組合の力を誇示し、争議の宣伝をするという目的にとどまったからである。

(2) 調布工場正門におけるピケッティングの具体的態様

四六年春闘(以下、昭和四六年中の年月日については年の表示を省略することがある。)において、調布工場では五月二〇日から六月四日までの間に計一三回、一三日間(事件<4>ないし<14>、<16>、<17>、ただし会社は事件<18>で六月五日もピケがあったと主張するが、前日すでにピケは解除されて同日は行なわれなかった。)、厚木工場では四月二三日から五月二八日までの間に計八回、八日間(事件<22>、<25>、<29>、<31>ないし<33>、<35>、<36>)、それぞれピケッティングが行なわれた。四六年春闘は二月一日の春闘情宣活動開始から七月二日妥結まで五か月、一五二日間続いたのであるから、ピケはそのうちのわずかな日数にすぎない。(1)で述べたような事情から、厚木工場におけるピケッティングは、参加人員も少なく、多くても二〇〇名ぐらい、時間も長くて四時間足らずで、それ以外の時は出入り、入出荷自由というまことにゆるやかなものであったから、ピケッティング自体による会社の打撃は全くなかった。調布工場においても、五月二〇日のピケッティングは七時二〇分から八時までの間で、新組合員、非組合員等就労者は自由に全員就労した。

五月二四日以降は、新組合の妥結、社長の一〇〇日戦争宣言、ロックアウトのおどし等もあり、組合としては調布工場にピケを張りストを守るほかない状況に追い込まれた。したがって、五月二四日、翌二五日には強固なピケが張られ、調布工場正門におけるピケッティングが攻防の焦点であった。

そこで、以下、調布工場正門におけるピケッティングの具体的態様を述べると、次のとおりである。

<1> 正門門扉内側には女子組合員を配置して、整然とスクラムを組ませ、人が通ることのできる通路を開けてジグザグに並ばせた。門扉外側には執行委員、中央委員などの男子組合員を説得要員として配置し、門扉は一人通れるだけの間を残して閉めた。このような配置をしたのは、会社側の暴力的な襲撃があった場合にピケッティングを防衛することを配慮したためであった。現実にも五月二〇日には組合のピケッティングに菅原係長の自動車が突っ込み、組合員にけが人が出ており、ピケッティングを暴力から守る必要性が痛感されていた。

<2> ピケッティングの司令部を正門脇の表面処理工場の屋上に置き、暴力的な襲撃が行なわれるような気配があったときには、直ちにピケッティングの解除指令を発して通路をあけ、負傷者が出ないよう万全の措置をとった。

<3> 就労しようとする者に対しては、スクラムを組み、あるいは立っている者が、一旦立ち止まらせ、待機させ、対話する、という平和的説得の方法をとった。説得を拒否して何が何でも就労しようとする者にとっては、通過に四、五分はかかったものの、通り抜け自由であった。

<4> ところが、ピケッティング前に至り入構させるように要求したのは職制であり、一般従業員で自発的に入構させるよう要求した者はほとんどなく、これらの者は、職制の先導でピケッティングの前まで来たのであって自主的にはピケッティングに対する共感ないしは精神的圧迫によってピケラインに近づかない者が多数であった。したがって、職制が従業員をピケッティングの隊列に突っ込ませ、強行突破をはかろうとしたりしたときだけ混乱が生じたのであり、それ以外のときにはピケッティングは平穏で、何らのトラブルも生じていない。会社には非組合員らを真実就労させようとする意思はなく、職制を先頭にして非組合員らに集団行動をとらせたのは、ピケッティングに対する挑発を行ない、就労しようとしたができなかったという外見を作り出すことを目的としていたことが明らかである。

<5> そして、職制らが多数の一般従業員を先導してピケッティング前に来て入構させるよう要求したのは、五月二四日、翌二五日の両日に限られ、それ以後は社外生産体制が確立していくにつれてこれに一般従業員が就労していったので、比較的少人数の職制が時たま入構を要求するにすぎなくなった。したがって、五〇〇名から七〇〇名が参加したピケッティングが同月二四日以降五回ほど行なわれたが、後半になるとピケッティングの人員も少なくなり、また時間も短くなった。

<6> なお、ピケッティングに当たり、組合は調布、厚木両工場で泊り込みをしたが、これはピケッティング要員確保のために行なわれたもので、何ら違法なものではない。

以上からすると、本件争議行為におけるピケはいずれも必要にして最小限度の、正当なものであった。本件ピケを指導実行したことは処分理由とはなり得ない。

(3) その他の争議行為の正当性

会社は通告書のないストをとりあげ、組合が抜打ち、無通告によるストを行なったとするが、その中には口頭や電話の通告があるもの、通告があっても無通告と虚偽の主張をするものも含まれ、実際に無通告のものはごくわずかであるばかりか、そもそも会社と組合の間にはストの予告義務を定めた協約がないから、組合には通告義務はない。また、組合の行なった指名スト、リレースト(時差スト)、重点部分スト等は争議戦術として正当なものである。

さらに、鈴木部長解雇要求ストは、同部長の不当労働行為発言に対し抗議し、より健全な労使関係の確立をめざす正当なストであった。

その他四六年春闘において組合が行なった集会、デモ、ビラ貼付、赤旗・立看板の掲揚設置は、いずれも正当な組合活動で、会社の受忍義務の限度内のものである。さらに、会社が処分理由に数える構内座り込み(事件<3>)、業務妨害(事件<21>、<26>)、中傷ビラ配付(事件<34>)、不法侵入(事件<37>)は、会社の主張に事実の歪曲があり、いずれも正当な組合活動あるいは組合員の正当な行為である(なお、監禁(事件<27>)の事実は存在せず、当然組合の指示もない。)。

(4) 争議行為による会社の損害

なお、組合のピケッティングあるいはこれを含む争議行為による会社の損害の点について付言すると、会社は、春闘に入る前から団交による回答の上積みを拒否する方針を決めてこれを実行し、組合をつぶすことに腐心していたのであって、争議を早期に解決しようとする姿勢は全くなかったのであり、会社のこのような態度が四六年春闘を長引かせ、争議の規模を大きくした原因であった。したがって、会社は組合の争議行為による打撃は覚悟していたのであり、むしろ、このような犠牲を払っても組合をつぶさなければならないとの意思のもとに組合攻撃を繰り返したのである。そして、本件春闘のあった昭和四六年度の会社の売上高は一七三億五八〇〇万円で、前年度の一五二億三〇〇〇万円より増大しているのであり、このことは、会社が決して損害を受けていないし、対外的信用も失っていないことを示している。さらに、会社は、組合に対しては低額一発回答に固執し、押しきり、組合をねじ伏せておきながら、他方で、就労感謝金として全従業員に金二〇〇〇円を支給したり、職制手当を出したりしているのであって、会社の受けた損害はほとんどなかったといっても過言ではない。

(二) 解雇の正当事由の欠如

解雇は、労働者において解雇されてもやむを得ないと社会通念上客観的に判断し得る正当事由がある場合に限り、許されるべきものであり、争議行為の責任は、会社側に動機において正当性があり、争議の発生継続においてその対処に落度がなく、組合に対して挑発的な行為が存在しなかった等の事情があった場合に、初めて問題になり得ることといわねばならない。

本件における会社の処分の動機は、原告らを会社から排除して組合を破壊し御用化させることにあったのであり、動機において正当性を欠く。また、会社は、四六年春闘において、当初からの方針に基づいて、一発回答宣言や回答引きのばしなどにより、団交を拒否し、争議を長期化させたのであって、争議長期化の原因はすべて会社によって予め作り出され、会社の頑固な態度によって促進されたものである。本件解雇はその正当事由を欠き許されない。

(三) 加えて、前記のとおり、本件が就業規則に該当せず、かつ、原告らの個人責任を追及することができない事案であることからすると、本件解雇が解雇権の濫用であることは明らかである。

2  不当労働行為

会社は労働組合を作らせないことを労務政策の基本としていた。したがって組合が結成されようとすれば妨害し、結成されれば組合を弱体化し破壊しようとした。本件解雇は、真実は会社の組合敵視政策の一環として、その幹部である原告らを職場から追放するためになされた。このことを明らかにするため、会社の組合敵視の労務政策が具体的に展開された経過を述べる。

(一) 四六年春闘までの会社の組合敵視の労務政策

(1) 組合結成前

会社は、組合が結成されるまで、従業員に対し、親睦団体であったミツミ会が労働組合の役割を果たすかのごとき幻想を与え、同会は会社の繁栄が従業員の生活向上につながると宣伝して会社の合理化に協力し、従業員の要求を抑える立場をとった。

そして、昭和四四年ころからミツミ会の体質を改善し、これを労働条件の向上等のために活動する組織に改革しようとする従業員の動きが表面化すると、会社はこれを種々弾圧し、また従業員がミツミ会の労働組合的機能に限界を感じ、労働組合結成準備を進めこれを公然化させると今度はこれを妨害した。

(2) 組合結成後四六年春闘に至るまで

会社の妨害にもかかわらず組合が結成され、昭和四五年年末一時金闘争においては会社に第五次回答として二か月プラス二万円(約二・四七か月)という大幅な譲歩を引き出したが、森部一社長は、組合要求を段階的に受け入れて回答の上積みを重ねたことについて「今回のような回答の出し方は失敗であった。今後は一発回答にしたい。」と発言するなど、同闘争終結と同時にすでに四六年春闘の対策を講じていた。

(二) 四六年春闘における会社の態度

四六年春闘において、会社は、一発回答を軸に組合の活動に対する妨害と挑発を繰返し、争議を長期化させて組合の疲弊、組織切り崩しを策し、もって、組合を壊滅しようとした。その概要を述べると次のとおりである。

(1) 五月二四日の全面スト・ピケ闘争に至るまでの状況

<1> 組合は、春闘に対する取組みを早めて、二月一日から春闘要求についての討議を開始した。ところが、会社は、組合の四六年春闘への取組みを妨害する意図で、同月二三日、調布工場VHF製造部の配置転換、合理化案を組合に提案し、組合がこれと取り組んで闘わざるを得なくさせた。三月一八日にようやく右の問題が解決すると、同日、会社は、今度は調布工場バリコン製造部の従業員を同工場抵抗器製造部へ配転することを発表し、組合をしてこれにも取り組まざるを得なくさせた。

<2> 組合は三月一二日の第一回団交で春闘要求を提出し、その回答がまだ出されていない同月二三日、厚木工場の鈴木章一開発センター企画部長が定例打ち合わせ会の席上、組合敵視の発言をした。それは、組合活動をしている者は研究者として不適格であるから開発センターをやめてもらう、組合活動をしたければ工場ですべきであり、開発本部内では組合活動をすべきではない、等というものだった。組合が右鈴木の責任を明らかにすることを要求したのに対し、会社は、その後の団交において発言の不適当であることを認めたものの、同人に対する責任追及は行なわないと言明し、これを庇護する態度に終始した。

<3> 三月二九日の第二回団交の席上、会社は、世間相場を考慮する必要があるので四月中旬までは回答できない旨を述べて自分勝手な回答拒否をした。その後四月一日、同月六日の団交でも回答を拒否し、組合が同月一四日に団交を開くよう要求すると団交自体を拒否し、文書で同月二四日前後を目途に回答したい旨通告したのみで、翌一五日の団交でも組合の賃上げ要求に対する回答引きのばしの意図を表明した。

組合は、このような会社の態度に対する抗議と早期に回答を引き出すことを目的として、四月二三日の電機労連の統一ストに合わせて半日ストを行なうことを決めた。ところが会社は、わざわざその前日の二二日に掲示板などに同日二四日最終回答をする旨のポスターを貼り出して大げさな宣伝をした。

<4> 四月二四日、会社は回答を示したが、それは組合の要求から大きくかけ離れた低額なものであり、しかも、会社は団交で、これが最終回答であって上積み回答は絶対にしない旨表明した。

そこで、組合は、新組合とともに、四月二八日及び三〇日の二回、半日ストライキを統一して行なった。しかし、会社の態度は全く変わらず、一発回答こそ最も誠意あるものであると宣伝したり、厚木工場におけるバス送迎協定を一方的に破棄するなどの挑発を重ねた。

<5> 五月に入ると新組合の後退姿勢が明らかとなり、これに合わせて、会社は、同月八日以降連日、ロックアウトを行なう可能性があることを公然とほのめかした。それまでに組合が行なったストライキは、半日ストライキが四波、三〇分ストライキが二波、その他厚木工場を中心とした全日ないし半日の重点部門ストライキが六波であるにすぎなかったにもかかわらず、会社はロックアウトの宣伝をして組合側を威圧しようとしたのであるが、組合は、右の宣伝を単なる脅しとは考えず、これに対処する闘争方法の検討を行なうこととした。

<6> 組合は、五月一三日の団交で、同月一九日の次回団交まで争議を拡大しない、それまでに会社は前向きの回答を検討するように申入れ、会社の出方を見守ったが、会社は一九日の団交に臨み、団交の時間を制限すること、賃上げは第一次回答どおりとすることの二つの条件を認めるならば団交に応ずるという高圧的な通告をしてきた。この時の団交では会社側団交委員長が退席し、他の団交委員も退席するおそれが出てきたので、組合員多数が団交会場につめかけ、会社側団交委員の退席を防止し、会社の団交打ち切りの策謀を砕いた。会社は、右団交以後五月三一日まで団交を拒否し続けた。

<7> 組合は、五月一九日から三六時間のストライキに入ったが、会社は強硬な態度をとり続け、全く第二次回答を出そうとしないばかりか、前記のとおり団交そのものを拒否するに至った。しかも、組合は、新組合の妥結により孤立させられた。そこで組合は、追い込まれた状況を打破するために、五月二四日以降全面ストライキを計画した。

一方、会社は、同月二二日、社外生産体制を作ることを決定し、同日夕刻から製品類、部品、治工具類等の搬出を開始した。そこで、組合は、会社がロックアウトの準備を開始したと判断した。また、会社は、職制にいわゆる連判状(「私はミツミ電機株式会社の役職者として今回の春闘争議に際し、社長の方針に従って行動を共にし統率を厳守することを誓います。万一これに反する言動のあるときは、別紙提出の退職届けを正式に受理されても異存のないことをここに連判して誓約いたします。」と書かれたもの)に署名させて、会社の統率に従う旨を誓わせた。

会社がこのような万全の体制を整えたのに対し、組合は、なお全面ストライキを回避するために妥協線を求めるべく、いわゆるトップ交渉を申入れたが、その際、社長は「歩み寄る気持は全くない、一〇〇日戦争をしても闘う、組合の無条件降伏あるのみ」と述べ、全く妥協する姿勢を示さなかった。

(2) 五月二四日以降の全面スト・ピケ闘争

全面ストライキは五月二四日から六月四日まで続いた。

しかし、会社はストライキを終結させるための積極的行動をとらないばかりか、ピケッティングを職制の車で突破しようとするなどの挑発をし、五月二六日には組合とのいわゆる休戦協定に反して搬出を強行しようとするなど強硬な態度をとり続けた。

五月二七日には組合の申入れによりトップ交渉が行なわれ、組合は「賃上げという名目では認めにくいのであれば食事手当一〇〇〇円を出すということで妥結したらどうだ。」と提案したが会社はこれにも応じなかった。

五月二九日、第三次トップ会談が行なわれた。会社の態度は従前どおりで交渉は進展しなかったが、社長も、組合の妥協案を明らかにせよ、そうすれば明日もう一度話し合おうと譲歩した。そこで組合は、賃上げ分として八〇〇円上積みするなどの妥協案を作り、翌日のトップ会談で提示したが、社長は、自分はのめない、他の役員の決定にまかせる、回答は翌三一日の団交で明らかにする、と述べた。

しかし五月三一日の団交においては、組合の妥協案に対する回答はなく、それどころか、今までまったく問題とされていなかった争議協定と三六協定を会社の提案するとおり認めれば中間採用者の賃金是正を八〇パーセントまで行なうという新たな主張をし、さらに今春闘における争議責任者を処分すると予告した。このため団交は一〇分程度で決裂した。

翌六月一日、会社は調布工場で暴力的に製品類の搬出を強行し、組合員を負傷させるという挑発をし、あくまでも組合を力で押えつける意図を明らかにした。

(3) ピケッティング解除後の会社の不当な攻撃

組合は、六月四日にストライキ・ピケッティングを解除した。

ところが、会社は、新組合員、非組合員らを対象に、六月七日に就労感謝金二〇〇〇万(ママ)円を支払う旨発表してスト破りを奨励した。さらに、組合員が就労するとその直後に組合事務所の明渡を要求した。

また、会社は春闘の妥結について引きのばしをはかった。すなわち、会社は、組合が申請した東京都地方労働委員会の斡旋を拒否したり、争議協定及び三六協定の締結は春闘全体の妥結条件であると言い出すなどして、春闘の妥結を引きのばし、組合を一層弱体化させようとはかった。

さらに、会社は、「一部共産主義者の闘争至上主義者の煽動が春闘混乱の一因であった」などと、自らの態度を棚上げして責任を組合幹部に転嫁する宣伝をした後、懲戒委員会の答申を無視して本件処分を強行した。

(4) 以上のとおり、会社は、春闘の始めから終わりまで、一貫して組合無視、団交軽視の姿勢をとり続け、争議の解決に全く努力しようとしないで、挑発を繰返し、自らこれを長期化させて組合を切り崩し、その壊滅をはかったのである。四六年春闘は不当労働行為の展示場といっても過言ではない。

(三) 四六年春闘後の会社の組合攻撃

会社は、四六年春闘後、一層露骨に組合に対する攻撃を強化し、次のような行動に出ている。

(1) 組合事務所への立入禁止、団交拒否

会社は、本件処分を受けた原告らが組合事務所に行くことを妨害し、また、同人らの出席する団交に応じないとの態度をとり、同人らの組合活動を妨害するとともに、一般組合員との離間を策した。

(2) 賃金カット協定の破棄

昭和四六年八月二三日、会社は組合に対し、いわゆる賃金カット協定(同四五年一二月四日に組合との間で締結されたもので、ストライキが行なわれた場合の賃金カットの対象を限定することを内容とするもの)の破棄を通告した。

(3) 就業規則の改悪と警告書攻撃

同年九月九日、会社は就業規則の改悪を通告した。その内容は、会社の構内においては就業時間の内外を問わず会社の許可なく組合活動をすることを禁止するというもので、会社は、かかる改悪を労働基準監督署の勧告を無視して強行し、改悪された就業規則を楯に組合の行なうビラ配布、職場集会を禁止し、さらに、不当処分撤回、賃金カット協定破棄及び就業規則改悪反対のためのリボン闘争に対して、組合及び組合員に数万枚にのぼる「警告書」なるものを発し、処分をほのめかして右の活動を妨害した。

(4) 先制的ロックアウト

四六年春闘後、同年夏季賞与、同年末賞与、四七年春闘、同年夏季賞与、同年末賞与、四八年春闘に至る賃上げをめぐる闘争は、すべて会社の一発回答で押しきられたが、これは四六年春闘における組合つぶしの策謀を引き続き強行したものであり、特に四六年年末賞与に関する闘争からは、組合がストライキを行なおうとすると、会社はその都度先制的にロックアウトを行なってストライキ闘争を妨害した。

(5) 一〇八名の不当解雇

会社は、組合つぶしを一気に完成しようとし、人員整理を名目として組合活動家多数を指名解雇した。すなわち、会社は、昭和四九年五月二日、突然人員整理を理由に一〇八名の指名解雇を発表したが、そのうち組合員は過半数の五六名であり(当時の組合の組織率は約三〇パーセント)、大部分が活発な活動家であった。右解雇につき会社は経営上の必要ということを主張したが、それ自体全く根拠のないものであった。(もっとも、右の指名解雇に対しては、会社の内外から厳しい批判が行なわれ、孤立した会社は組合員全員の解雇を撤回して職場復帰を認めざるを得なくなり、会社の組合つぶしの意図は失敗した。)。

(6) ビンタ研修

新入社員に対する気違いじみた反組合教育が行なわれ、新入社員研修の合宿で旧軍隊式のビンタ研修が行なわれたことが新聞で問題となり、東京法務局による是正勧告がなされたほどである。

(四) 以上のとおり、会社は一貫した組合敵視政策をとり続けてきたのであって、本件解雇は違法争議を口実に組合つぶしを目的になされたことは明らかである。したがって、本件解雇は不当労働行為であって無効である。

二  被告の主張、反論

本件解雇は、紊乱された規律の回復とその維持確立の観点から、懲戒の本旨に即して適切公平に行なわれた正当なものであり、そこには懲戒権の濫用や不当労働行為の余地はない。

四六年春闘は、昭和四六年初頭から組合の極めて高姿勢かつ実力闘争至上の方針のもとに周到に計画され、計画どおりに遂行された闘争であった。原告らは、右春闘について、会社が仕掛けたものであるとか、あるいはそこで会社が組合つぶしをはかったかのごとく主張するが、それは、すでにスト権確立の前から、組合員を実力闘争へと駆りたてるための煽動の手段として言ってきていた会社敵視の内容空虚な悪宣伝、あるいは予め準備された実力闘争を責任転嫁するための口実にすぎない。

そこで、以下、原告らの主張に対する反論として、四六年春闘における争議行為とその闘争指導の実態を明らかにする。

1  四六年春闘に至るまでの状況

(一) 組合結成前における労働条件及び労使関係

会社は、昭和三〇年一一月に設立されて以来、同四五年中ころまでは拡大発展を遂げてきたが、その間、従業員の労働条件については、経営基盤の許す限り利益を従業員に還元してその維持向上をはかるという基本的姿勢のもとに、賃金につき、昭和三六年六月から利益配分金制度を実施するとともに、同四一年一月には、それまで年二回であった賞与(利益配分調整金)を年末だけの一回として夏季の賞与分はこれを基本給に組み入れること(これにより基本給は三〇パーセントの増額となり、その増額分は年間にして三・六か月分の賞与にあたる。)、同四二年二月には「所得倍増五か年計画」を実施する等の施策をとり、その結果、会社の賃金水準は、同四四年ころまでは同業他社と比較して月収、年収ともにほぼ最高の水準を維持してきた。また、賃金以外の労働条件についても、「時間短縮五か年計画」を実施し、さらに、特に地方出身の女子従業員が多いということもあって、その生活環境の整備、充実に配慮するなど、積極的な努力を行なってきた。

一方、会社には昭和四五年七月に組合が結成されるまで労働組合はなく、右結成前においては、親睦団体として設立されたミツミ会が、従業員の労働条件に関する意見希望、要求について会社との間のパイプ役をつとめてきた。その後、競争の激化による利益率の低下等から、労働条件の維持向上について従来のように推移することが困難となると、従業員の中から労働組合結成の機運が生まれ、昭和四五年七月二三日、厚木工場の従業員を主力としてミツミ電機労働組合(組合)が結成され、続いて同年九月調布工場の従業員で組合に加入した者をもって組合の調布支部が設置されるに至り、さらにその後調布工場の従業員等をもってミツミ電機新労働組合(新組合)が結成された。そこで、労使関係は、以後、右各労働組合、特に組合との間で展開されることとなった。

(二) 昭和四五年夏季賞与問題

組合は、昭和四五年七月二九日の団交において、夏季賞与の支給を要求の一つに掲げ、会社は、一人一万円を限度として五か月間の均等返済の条件で貸し付けることを提案し、また、組合は、同年九月四日には、「二か月分プラスアルファ」を要求する旨文書で申し入れるなどして、団交、話合いが重ねられ、同年一〇月一九日、電機労連本部が間に入って話し合われた結果、「会社は、年末賞与について妥結額に一律五〇〇〇円を加算する。希望者には一律五〇〇〇円を無利息で貸し付ける」旨の内容でまとまったものであるが、組合の右要求はもともと無理なものであった。すなわち、会社では、前述したように、昭和四一年以来、賞与一回分の基本給への組入れによる給与の向上と安定化がはかられ、これを前提として賞与は年末のみ支給するという給与体系がとられていたので、急に夏季賞与を要求されても、支給原資は予定されていないし、会社としては給与体系全体に関する検討のうえに立ってこれを考えざるを得ないところであり、たとえ夏休みの小遣い程度とはいっても、にわかにこれを支給することは困難であった。

(三) 昭和四五年年末賞与闘争

次に、組合は、昭和四五年一〇月二四日、同年の年末賞与として「四・五か月分プラス二万円」を要求する旨申し入れた。当時、会社内外の状況は極めて厳しく、現実に会社の業績が著しく低下して、昭和四六年一月の決算期には欠損の出るであろうことがほぼ明らかとなっており、資金繰りも著しく逼迫していた。かかる状況下において年末賞与をめぐる闘争が始まり、昭和四五年一一月六日の第一回から一三回に及ぶ団交を経て、同年一二月四日、「二か月分プラス一律二万円(二・四七か月分に相当)」で妥結をみるに至った。その間、組合が行なった闘争手段は、主にハチマキ着用就労の闘争、社内外のデモ行進、構内における集会、会社施設に対する大量のビラの貼付が中心であり、ストライキも、調布工場で九波・三二時間、厚木工場で一一波・四二時間に及ぶものがあったが、それは残業拒否や業務拒否を中心とするもので、入構や入出荷に対する阻止行為はわずかに一二月二日の厚木工場正門におけるそれのみであり、若干の業務妨害行為や規律紊乱行為はあったものの、それは四六年春闘の場合とは比べものにならない程度のものであった。組合が要求貫徹のために会社にかける圧力は、右のような闘争手段によるよりも、むしろ団交の場における集団暴力をもって会社の交渉員の自由を拘束し、これを通じて会社の交渉における自由意思の抑圧、否定をはかり、もって有利な回答を引き出すということに重点をおいたものであった。

2  四六年春闘の経過

(一) 会社の状況と賃上げについての態度

(1) 昭和四六年当時、我が国の経済は不況期にあたっていた。特に、昭和四五年夏ころから急激に深刻化した電機業界の不況と米国の景気後退は、受注生産方式のパーツ・メーカーであり、輸出比率の高い会社に対し、極めて重大な影響をもたらした。これに加えて、会社には、昭和四四年における売上の対前年比の伸び率一七〇パーセント以上という急激な売上増加に対処するため、企業規模を拡大したところ、右拡大のための設備投資が裏目に出たことや、それまで新製品開発に約六〇億円もの投資をしたにもかかわらず、見るべき成果がないままであること等の事情もあった。このようなことから、会社の業績は低下し、昭和四六年一月期の決算で、会社は、設立以来初めての赤字(それも、売上高が前年度の一七五億円から一五二億円に激減したため、六億九〇〇〇万円を超えるものであった。)を余儀なくされるに至った。そこで、会社は、かかる事態に早急に対処し、昭和四六年を経営革新の年として体質の改善強化をはかるべく、同年一月五日には、経営陣の強化、適正規模への是正策(本社を調布工場へ移転して、本社の土地建物を売却すること等)などの施策を決定し、これを全従業員に発表してその理解と協力を求めた。

(2) 右のとおり困難な状況のもとで会社は春の賃上げ時期を迎えた。しかし、物価の上昇や世間の水準とのバランス、さらには従業員の生活向上ということからすれば、いくら赤字だからといって賃上げをしないというわけにもいかず、会社は、その業績発展のため従業員の積極的協力を得て賃上げ分を将来の企業努力により吸収し得るという前提に立ち、かつそれを期待して、何とか世間の水準に近いものを出したいと考えた。また、賃上げ交渉の回答にあたっては、昭和四五年の年末賞与問題において、会社の小出しの回答の仕方がかえって組合に過大の期待を抱かせ、遂に会社が窮地に追い込まれた、という経験に対する反省もあって、最初からかけひきのない最大限のものを慎重に決めたうえで提示することとしたが、そのためには、当然、他社の回答状況をよく見極めなければならなかった。かかる経緯と事情のもとにおける会社の誠意を示す回答の示し方として会社の言っていたのが、いわゆる「一発回答」であった。

(二) 一月下旬から四月一三日(スト権の確立)まで

組合及びその幹部等は、昭和四五年の年末賞与闘争によって一応の闘争とその指導を経験したこともあって、昭和四六年一月下旬には、四六年春闘について「ストを含む強力な闘争」を進めるという実力闘争至上の高姿勢の方針を決定し、この時から、全面ピケ・ストによる完全封鎖を中核的手段として闘争を推進する意図のもとに、組織を挙げて実力闘争への準備を着々と進めた。それとともに、会社が、経営刷新のため業務上必要な諸施策(本社敷地の売却とそれに伴う調布工場への移転、そのための同工場の余った面積を捻出する必要性とそれに基づく編成替、編成替にあたってのチューナ部門の厚木工場への職場ごとの移動とそれに伴う人事異動、関連会社四国ミツミの不振と同社の切り離し、それに伴う同社からの出向者の引揚げ、その後の穴埋めのための配置転換等)を実施しようとすることに対しても、ことごとにこれに対する職場闘争と称する反対闘争、非協力闘争を指導、煽動して春闘への闘争意欲の盛り上げをはかった。さらには、停滞した研究開発部門の再建のために招聘され、昭和四六年三月に着任した鈴木部長が、職場の従業員との間の意思疎通、意見交換のためのフリートーキングの場で意見を述べると、その中に加わっていた訴外有坂正一がことさらにこれを歪曲して悪宣伝を始め、組合もこれをとりあげて中傷誹謗の内容等をもって大々的に鈴木部長に対する攻撃を続け、春闘の気勢をあおったのである。

そして、組合は、二月二七日には合同執行委員会において春闘要求内容を決定し、三月一二日の団交において要求を提出し、三月二九日を回答日と指定するという、あえて異例の早期要求、早期回答日の指定を行なった。これに対して会社が初めから回答期日の見通しを明らかにしてその事情をもよく説明してきているにもかかわらず、組合は、組合員等に対しては、そのような会社の態度を一切伏せたまま、かえって、三月一五日には、会社が回答を出すのが無理な期間に七回もの交渉日を一括して指定した団交の申入れをして、会社の回答拒否の外形を作り出そうとするなどして、あたかも会社が回答期日の目途すら示さずいたずらに回答を引きのばしているかの如く、全く事実に反する宣伝を行なって、会社に対する反感、不満、等をあおり続け、四月一三日のスト権確立の投票日に向けて巧みな教宣を行ない、ついに同日スト権を確立し、組合の執行部は、「賃上要求に対する満額回答の獲得」と「鈴木部長解雇の要求」の二つについての闘争の一切の企画、決定、指令、指導、遂行に関する権限を掌握するに至ったのである。

(三) 四月一四日(スト権確立の翌日)から五月一八日(新組合との妥結)まで

組合は、スト権の確立において闘争手段についての一切の指揮権限を掌握するや、早速、幹部等の就業時間中の組合活動のための時間を確保すべく、連日指名ストライキの名目で無許可業務放棄を行ない、まず第一の闘争目標を四月二三日の電機労連の統一闘争日にスケジュール闘争を行なうことにおいた。そのため、組合は、会社が四月八日に「回答は四月二四日前後を目途に行ないたい」旨などを文書で述べて、回答時期の目途とその理由を明らかにし、その後同月一四日にも右同様回答時期の目途を文書で明らかにしているにもかかわらず、これを組合員一般には一切知らせず、会社は一向に回答しようとしないとか、ただ単に引きのばしを策しているなどと事実に反することを教宣してあおり続け、会社の示した回答日の前日であり、予定したスケジュール闘争の当日である同月二三日の朝になって初めて、会社が同月二四日に回答する旨述べているということを組合員に告げたのである。

そして、四月二四日、会社は最大限の誠意ある回答を示したが、組合はこれを不満として、同月二六日全面ストライキを行なうとともに、翌二七日までに組合の要求する満額回答のない限りは今後いかなる事態になろうともその責任はあげて会社にある、という脅迫的通告をなし、同日の合同執行委員会においては、「今後の闘争方針として、組合員の賃金カットによる打撃を最小にし会社ダメージを大きくして会社に譲歩させるため、重点部門ストライキを行なう」という強力な闘争方針を決定し、右同日以降、全面ストライキ、全面無断業務放棄、無通告によるリレー式の集団業務放棄、指名ストライキを連日反復して行ない、同月二九日以降調布工場においては無期限重点部分ストライキを継続するに至り(これらの闘争手段は、五月二二日、つまり全面ストライキに入る前まで続けられた。)、会社の調布、厚木両工場の生産工程を四月二七日以降麻痺混乱の状態に陥れ、窮状にあった会社に重大な打撃を与えた。

かくして、会社は、四月末ころから、企業運営上の合理性を維持防衛するためにはもはやロックアウトを命ずるほかない事態となっていたが、組合の悪質巧妙な闘争手段と会社の勉強不足のゆえにそれもなし得ないまま推移した。組合は、五月に入ってからは、職場における職場団交と称する集団の業務放棄と集団による職制の吊し上げ、強要による規律紊乱行為(組合のいわゆる「職場闘争」)を連日にわたって展開し、それによっても工場を生産停止やむなき事態に追い込んでおり、さらに、五月六日の合同執行委員会において、「当初の予定を変え、長期決戦でゆく。電機労連が妥結した後も闘い抜くことを職場で確認する。」等を決定し、ロックアウトをうたれた場合の対策についても考えるべし、などとして、ロックアウトを予想した闘争手段をも考慮していた。五月七日には、調布、厚木両工場における会社施設に対する破壊活動を伴う大々的なビラ貼付行為、同月一〇日以降は、厚木工場の加工センターと開発センターに対する重点部分ストライキ、同月一一日からは、右両工場における工場全域を対象とした本格的リレー式ストライキ等を強行し、両工場の操業をいよいよ混乱させ、麻痺させた。

そして、組合は、五月一五日の合同執行委員会において、今後の闘争方針として、「五月一九日の団交において誠意ある回答(「満額回答」のことである。)が出されなかった場合には、一九日昼より二四時間、四八時間を辞さない全面的ストライキに入る。そしてさらには生産不可能な徹底した拠点ストライキ、部門ストライキに入る。」という極めて高姿勢かつ強力な実力闘争の方針を決定した。

なお、五月一八日、会社と新組合とは、第八回目の団交をもち、四六年賃上げ及び付帯要求について合意に達し、賃金改訂については四月二四日付会社回答の線で妥結した。

(四) 五月一九日から六月四日(集団暴力による工場占拠・阻止闘争の中止)まで

(1) 五月一九日、第一一回団交が行なわれた。右団交の申入れの際、組合は、時間の制限なしに団交を行なうという条件を付していたが、会社はこれについては応じられない旨を明らかにしていた。にもかかわらず、組合は、五月一九日、ストライキによって多数の者を業務放棄させたうえ、集団で本社の団交現場へ押しかけさせ、会社の制止を押し切って建物内へなだれ込ませて廊下に集団で座り込ませるなどして、会社側交渉員の行動の自由を拘束し、もって組合の要求を通そうとはかった。そして、組合は、かかる圧力に会社が屈しないとみるや、前記五月一五日の合同執行委員会の決定に基づき既定の強力な闘争手段に訴えることとし、同月二〇日以降、工場占拠、入構・入出荷阻止という集団暴力による阻止を闘争手段の中軸として、悪質かつ巧妙な闘争へと突入した。

そして、組合は、五月二〇日、調布・厚木両工場で集団スクラムによる入構阻止を行なうとともに、同日の合同執行委員会において、二二日以降の闘争方針として二四日、二五日、二七日、二八日に「全面ピケッティングスト」(「集団による完全な阻止闘争」を意味する。)を行なうことを決定した。同月二二日には、原告鈴木調布支部支部長が、「五月二四日以降本格的に集団のピケッティングによる阻止行為を伴うストライキを行なうこと」を執行部方針として組合員に公表したりしたうえ、二三日夜から調布支部執行委員らの指揮のもとに調布工場内への不法侵入や泊り込みを行なって工場を占拠し、翌二四日早朝以降の阻止態勢の確保に備えた。

かくして組合は、調布工場においては、五月二三日夜以降六月四日まで、無通告による無期限の全面業務放棄を続け、昼夜を分かたず集団による工場占拠とそれをベースとしたスクラムやピケッティングによる入構・入出荷阻止ないしは阻止妨害体制を堅持し、厚木工場においては、五月二四日の夜から連日泊り込みをし、同日早朝から無期限全面ストライキに入り、六月四日まで昼夜を分かたず阻止態勢と工場の占拠を続けた。

(2) ところで、五月二三日午後九時三〇分ころ、すでに右のような不法侵入、泊り込み、不法占拠の態勢をとり終わった後、原告藤原執行委員長は、福島書記長、小美濃調布支部副支部長、荒井調布支部執行委員とともに、何の事前連絡もなく、森部社長の自宅を訪れて面会を求めた。森部社長は、これに応じて、同人らに、会社の実情と賃上げについての考え方を縷縷説明して理解と協力を求めた。その際、原告藤原が「上積みしてもらいたい。そうでないと話にならない、せっかく事態の収拾をはかろうとしてわざわざ話に来たのにこれではどうしようもない、全く不満だ。」、「会社がそのような態度なら闘わざるを得ない。」などというので、森部社長は、「これだけ事情を話しても理解と協力が得られず、あくまでも譲歩せよ、そうでないと闘うというのであれば、会社としても残念だがいたしかたない。受けて立たざるを得ない。」ということを明らかにして話を終えた(原告らは、その際社長が「一〇〇日戦争をしても闘う。」とか「無条件降伏あるのみだ。」などと述べた旨主張するが、事実に反する。)。

次に、五月二六日、原告藤原は、会社側の団交出席者の一人である水野調布工場副工場長に対し、非公式に、「事態収拾のため解決の糸口を見出したいが、何とか骨を折ってもらえないか。」との相談をもちかけた。そこで、翌二七日、会社の団交出席者の中の一部の者が組合幹部と会って非公式に話を聞いた。その際、原告藤原は「賃上げという名目でなく食事手当として一〇〇〇円を支給するということにでもしてもらえないか。」と述べ、会社側の者は、よく検討して返事をする旨述べた。右要求について、社長、団交委員、人事部長において協議検討したところ、電機労連に加入している同業他社の食事手当支給の実情、会社と同業他社との給与水準の比較、会社の給与体系との関係からみて、右要求を受け入れるわけにはいかない、という結論となり、会社は、翌二八日、原告藤原にその旨を回答した。

さらに、同日夜、原告藤原からの社長との面談の申入れがあり、これに応じて、二九日、会社から森部社長と原口副社長、組合から原告藤原、福島書記長らがそれぞれ出席して話合いがなされた。その際、組合側は、具体的な案を示すことなく、会社は譲歩する気持はないのか、譲歩すべきだ、というのみだった。これに対し原口副社長が「会社としては、事態の収拾を考えているが、それにしても、組合の悪質違法の闘争手段をバックにした要求に応ずるとすれば、会社の規律維持や今後の労使関係を考えた場合に大きな問題が残るので、組合がまず違法な闘争手段をやめることが先決だ。会社の譲歩はそれから検討すべき問題である。」との考えを明らかにしたが、組合側は「現在の闘争方針を変更する気持は全くない。」ということであったため、この日の話合いは進展をみないまま終わった。なお、その際社長は、組合としても収拾可能の具体策をよく考え直して出てきてもらいたい、そのうえで明日藤原委員長と話し合うことにしたい、旨を述べた。

五月三〇日、社長と原告藤原とが、前日の非公式の話合いの続きとして、二人だけで話合いの機会をもった。原告藤原は、組合の要求として、「<1>、九六〇〇円の一時金を出し、これを毎月給与で八〇〇円ずつ一二か月間支給する。そして、四七年の賃上げに八〇〇円底上げすること。<2>、中間採用者の賃金是正をモデル賃金の八五パーセントとすること。<3>、一年以上勤務者に対し有給休暇一〇日を付与すること。」を示したので、社長は、検討のうえ団交の席で回答する旨述べた。

その際、右藤原は、今回の責任追及をしない旨の約束をしてほしいと言い出したのに対し、社長は、そのような約束はできないと答えていた。

翌三一日、団交が行なわれ、会社側は、前日社長に対して示された組合の要求につき、「<1>、三六条協定は、前年どおりむこう一年間の期間について締結すること、及び<2>、争議協定について会社提案どおり締結すること、の二点を前提として、中間採用者の賃金をモデル賃金の八〇パーセントまで是正することとするが、他の二つの要求はとても受け入れられない。」と回答し、同時に、今回の争議行為において違法行為のあった幹部については規律維持のために処分をせざるを得ない旨を明らかにしたところ、組合側の出席者はいっせいに席を立ってしまったため、団交は一〇分くらいで決裂した。

(3) 会社は、五月二三日夜以降の組合の昼夜を問わぬ工場占拠と集団の暴力による阻止妨害態勢及び二四日以降連日の入構・入出荷に対する阻止妨害行為による全操業の停止という重大な事態に鑑み、早急に法的救済の措置をとることとした。一方、会社の体力を維持し、多少なりとも損害をくい止め対外信用の維持回復につとめるための方策として、五月二七日から、非組合員のうち約四〇〇名をもって、組合の工場占拠と阻止妨害態勢が解かれればいつでも調布工場で操業をなし得る体制を維持しながら、暫定的に、本社社屋の一部とか、関連会社等の工場の一部を借用するなどして仕事をすることとせざるを得なかった。

そして、会社としては企業防衛のためには職制以下非組合員等の団結強化のうえに立って対応するほかなかったことから、社長は、二七日、そのための職制の団結を確認する趣旨で、各職制に団結を要請し、誓約書に署名を求めたところ、各職制はこれに応じた。

次いで、会社は、五月三一日、組合の工場不法占拠、入構・入出荷阻止妨害行為について、東京地方裁判所に妨害排除仮処分命令を申請した。

会社は、五月二四日以降完全に工場の管理権限を奪われ、入構・入出荷阻止により企業活動が一切麻痺状態に追い込まれたことにより、長期にわたる納期遅延に対するペナルティー要求、他社購入への切換等、問題が累積しつつあり、このころには一日でも早く製品を出荷しなければならないほど緊迫していた。そこで、六月一日、職制ら約二〇〇名が、製品を搬出するため、裏門のピケの手薄に乗じて門を乗り越え、門扉を内側から開放して入構し、組合が緊急動員をかけて強力な阻止態勢をとるまでのわずかの時間に、組合員らの阻止妨害にあいつつも、ようやく製品の一部を出荷した。

(五) 六月五日から七月二日(組合との春闘の妥結)まで

組合は、六月五日、それまでの阻止態勢を急遽変更して、本社、調布工場における阻止妨害を中止し、同月七日には、それまでの無通告前(ママ)面業務放棄をもやめて就労する旨を明らかにしたので、会社もこれを認めた。ところが、組合は、一方では、六月五日以降、それまで以上の多数の赤旗を調布工場の正門門扉に乱立設置するとともに、同月八日、九日の両日には同工場の重要職場について部分ストを行ない、また、七月二日の妥結の日に至るまで、連日指名スト(組合幹部等の就業時間中における組合活動のための業務放棄)を抜打ち的に行なった。

右の間、会社・組合間において団交や事務折衝が重ねられた結果、ようやく七月二日賃金改訂と付帯要求について妥結の運びとなり、協定書の調印が行なわれ、ここに四六年春闘が終了した。もっとも、右妥結の前提として協定を成立させるべく折衝されてきたもののうち、三六条協定は七月六日に成文化をみたが、予告時間に関する争議協定については、組合が争議中の賃金を二〇パーセント保障する旨の協定との同時締結を要求したため、既に合意をみていた右争議協定も、ついに成文化に至らなかった。

理由

第一  懲戒解雇通告等

一  原告藤原(「以下「原告藤原」または「原告藤原執行委員長」ともいう。)が昭和四一年三月三〇日に、原告鈴木(以下「原告鈴木」または「原告鈴木調布支部支部長」ともいう。)が昭和四三年三月二七日にそれぞれ会社に雇用されたこと、会社が昭和四六年七月九日原告らに対し懲戒解雇する旨通告したこと(以下「本件解雇」ともいう。)は、いずれも当事者間に争いがない。

二  被告は、原告らの解雇理由として、別紙一記載の事件<1>ないし事件<40>について原告らに非違行為があったと主張しているが、右各事件は、ほとんどが昭和四六年春闘におけるミツミ電機労働組合(以下「組合」という。)の争議行為である。

三  そこで、以下、会社及び組合の概況(第二)、昭和四六年春闘の経過(第三)、事件<1>ないし事件<40>(第四)を検討したうえ、これらを基にさらに検討(第五以下)する。

第二  まず、昭和四六年春闘に至るまでの会社及び組合の概況について判断する。

一  会社の概況

(証拠略)の結果並びに弁論の全趣旨によれば、次の事実が認められ、この認定を左右するに足りる証拠はない。

1  会社は、昭和三〇年一一月に設立された電気機械器具等の製造・販売を目的とする株式会社であり、昭和四六年当時、資本金一六億一四七二万円で、東京都北多摩郡狛江町(以下略)に本社を、東京都都(ママ)調布市(以下略)に調布工場を、神奈川県厚木市(以下略)に厚木工場をそれぞれ有していた。昭和四六年四月末当時の従業員数は三二〇〇名余りで、本社従業員が二八二名、調布工場従業員が一七一八名、厚木工場従業員が一二一六名であった。

2  会社は、設立時の従業員が二〇名余でソケット製造を主業務としていたが、やがて、森部一社長の開発したポリエチレン・バリュアブル・コンデンサー(ポリバリコン)の生産によって急速に業績を伸ばし、規模を拡大し、昭和四二年に一時不況の影響を受けたほかは、昭和四四年まで順調な成長を遂げ、この間昭和四二年一二月に東京証券取引所、大阪証券取引所の各一部に株式上場し、昭和四四年度の売上高は約金一七〇億円に上るに至った。事業所としては、本社及び調布工場、厚木工場のほか、子会社の国内九社、国外四社を擁していた。昭和四五、六年当時、ラジオ、テレビ、テープレコーダー等の部品であるポリバリコン、コイル、チューナーの三種を中心にして、製造加工した物を大手電機メーカーに供給して、業界有数のシェアーを占め、また、カメラの部品である抵抗器の製造についてもかなりのシェアーを有していた。しかし、昭和四五年中ころから米国の不況の影響等により国内電機産業全般が不況に陥って売上が減少したことに加えて、会社の過去の急速な成長に伴う設備投資の負担や新製品開発の遅れ等があって、収益の状況は悪化し、同年二月一日から昭和四六年一月三一日までの期間に金三億一〇〇〇万円余の営業損失を生じたほか、棚卸し資産評価額、繰延資産償却費が大幅に増額し、さらに子会社貸倒引当金繰入金を新たに計上した結果、右期間の末日の決算において金六億九〇〇〇万円余の損失を計上するに至った。

3  会社は、賃金、一時金等についてそれぞれ利益配分金、利益配分調整金という名称を用いていたが、その一時金については年二回制であったものを昭和四一年から年一回制として一回分を給与に繰り込んだことから、その当初給与(基本給)が三〇パーセント増額となった。また、会社は昭和四二年から所得倍増五か年計画を実施したが、これは、賃金を毎年一五パーセントずつ増額することにより、五年間で倍額にすることを計画したものであった。

これらにより会社の賃金水準は、昭和四四年ころまで同業界の他社と比較して格別遜色のないものであったが、その間の他社の賃金上昇率が会社のそれを上廻ることもあって、昭和四五年には、会社の賃金水準は同業他社のそれに比してやや劣るようになった。

二  組合の概況

(証拠・人証略)の結果並びに弁論の全趣旨ないし争いのない事実によれば、次の事実が認められる。この認定を左右するに足る証拠はない。

1  会社には、後記のとおり組合が結成されるまで労働組合はなく、親睦団体としてミツミ電機株式会社ミツミ会(以下「ミツミ会」という。)があった。ミツミ会は、会社の従業員及び役員を会員とし、会員の直接選挙により評議員中から選出される理事をもって構成される理事会、各職域ごとに選出された評議員が構成する評議員会等の機関を有し、会を代表して会務を統理する会長のほか、理事長等の役員を置いていたが、右会長は社長がなるものとされていた。また、ミツミ会の事務処理機関であるミツミ会係には会社人事部長を充てるものとされ、会として慶弔見舞金の支出や文化体育のサークル活動等を行ない、ミツミ会規程上、会社がミツミ会の活動を助成する目的で月額二〇万円以上を補助納入するものと定められていた。

他方、ミツミ会は会員の労働条件の維持改善に関する活動も目的とするものとされ、社長、労務担当役員、労務担当部長及びミツミ会理事で構成される経営協議会における協議等を通じて、労働条件や賃金に関する従業員の要望、要求がミツミ会理事から会社側に申し入れられ、これについて協議されることになっており、その限度で労働組合に代わる組織として性格を有していた。そして、実際に毎年のベースアップの要求等は、ミツミ会理事によって申し入れられ、時間外労働に対する協定(いわゆる三六協定)も会社とミツミ会理事長との間に締結されていた。しかし、ミツミ会の組織が前段のような性格を有していたことから、労働者の権利・立場を主張して擁護するという観点からは、その活動に限界があった。

2  そのため、昭和四四年九月に原告藤原、訴外小川猛夫及び同山崎芳広が、同年一二月に原告鈴木、訴外吉田和男(以下、訴外人は単に人名のみ表示することもある。)がそれぞれ理事に選出され、原告藤原が理事長に就任するに及んで、ミツミ会を実質的に労働組合化しようとする立場に立って、賃上げ、一時金、その他労働条件の改善等に関する要求が強くなった。しかし、理事会の方針が評議員会に受け入れられない場合もあって、ミツミ会の労働組合化にはやはり限界が感じられたうえ、会社が昭和四五年六月二三日に原告藤原に対して関西営業所への配転を命ずるに至って(右配転命令は、従業員の阻止闘争によってひとまず同年一二月末日まで延期され、その間に組合が結成され、原告藤原が組合専従となるに及んで自然解消された。)、急速に労働組合結成の動きが強まった。

3  そして、昭和四五年七月二三日、組合結成大会が開かれ、厚木工場の従業員一〇〇〇名近くの加入を得て、組合が結成された。さらに、同年九月一七日、本社、調布工場の従業員約一一〇〇名の加入を得て、組合調布支部が結成された。

当時、原告藤原は組合執行委員長に、原告鈴木は組合調布支部支部長にそれぞれ選任された。また、吉田和夫は組合調布支部書記長に、小川猛夫は組合中央委員会議長に、福島喜勝は組合書記長に、小美濃勝は組合調布支部副支部長に、山崎芳弘(ママ)は組合副執行委員長、山口実は組合執行委員財政部長にそれぞれ選任された。組合は上部組合には加入しなかった。

なお、会社は、組合調布支部結成準備の中心となっていた原告鈴木に対し、昭和四五年九月一一日から約一か月間の福島県いわき市への出張を命じ、同支部結成大会への出席を不可能にさせた。

4  組合の結成に伴いミツミ会は解散することとなったが、当時のミツミ会評議員中には係長クラスの従業員が比較的多数いたのに、組合が組合員資格から係長以上を除いたこともあって、原告藤原執行委員長、原告鈴木調布支部支部長らを中心とする組合の過激な主張に危惧を感じた一部評議員が中心となり、組合に対抗する組織として、昭和四五年八月三日、ミツミ社員会が結成され、さらにこれを母体として、同年九月二四日、ミツミ電機新労働組合(以下「新組合」という。)が結成され、係長クラスを含む本社・調布工場の従業員約三〇〇名がこれに加入した。

5  組合は、最初の活動として、昭和四五年度夏期一時金の要求をすることとし、同年九月四日、会社に対し、二か月分プラスアルファの支給を要求した。これに対して、会社は、前記のとおり年二回の一時金の内一回分を基本給に繰り入れた経緯を理由に、右要求を拒絶し、折衝・交渉が重ねられた。その間、組合は、腕章・ハチマキ闘争、厚木工場内及び市内のデモ、時間外労働の拒否等を行なった。

そして、組合が会社との交渉を事実上電機労連本部に委ねて、昭和四五年一〇月一九日、会社が年末賞与の妥結額に一律金五〇〇〇円を加算し、そのほかに希望者には一律金五〇〇〇円を年末賞与支給時まで無利子で貸与する旨の協定が成立した。

6  次いで、組合は、昭和四五年一〇月二四日、会社に対し年末一時金として四・五か月分プラス一律金二万円の支給を要求し、会社は、同年一一月一四日に行なわれた団交において平均一・五か月分の回答をした。

組合は、右回答を不満とし、昭和四五年一一月一八日ころ以降、時限全面ストライキ、指名ストライキ、ステッカー・ビラ貼り等を繰り返し、厚木工場においてピケッティングも行なった。そして、昭和四五年一一月六日から同年一二月四日まで一三回の団交が重ねられ、右各団交において、組合は、会社に対して、上積みを強く要求した。これに対して、会社は、昭和四五年一一月二四日に行なわれた団交において平均一・八七月分の、同月二六日午後六時三〇分ころから翌二七日午前一時ころまで行なわれた徹夜団交において平均二か月分の、同月二七日午後六時三〇分ころから翌二八日午後一時ころまで行なわれた徹夜団交において平均二・〇三か月分、平均二・〇七五か月分の、同月二八日午後一時三〇分ころから翌二九日午後三時ころまで行なわれた徹夜団交において平均二・二二か月分の、同月三〇日に行なわれた団交において平均二・四七か月分プラス一律金五〇〇〇円の、一二月二日午後一時ころから翌三日午前三時ころまで行なわれた徹夜団交において平均二・〇か月分プラス一律金二万円の各回答をして順次上積みをし、譲歩した。その結果、昭和四五年一二月四日に会社と組合は、二・〇か月分プラス一律金二万円(二・四七か月分相当)で妥結した。

なお、その間、新組合も、昭和四五年一一月三〇日に全面ストライキを行ない、同年一二月二日、新組合と会社とは、右と同一の条件で妥結した。

第三  次に、事件<1>ないし<40>については暫く措き、四六年春闘の内その余の経過をみることとする。

(以下、昭和四六年中の年月日については年の表示を省略する。また、月の表示のない日付はその直前の日付と同月日、日付の表示のない時刻はその直前の日付と同日の時刻を指す。)

(証拠略)の結果並びに弁論の全趣旨ないし争いのない事実を総合し、さらに以下の各項については各項の末尾括弧内に付記する証拠を加えて、次の事実を認めることができる。右各証拠中この認定と異なる部分は、その余の各証拠に照らして採用することができず、他にこれを左右するに足りる証拠はない。

一  当時の会社の森部一社長は、昭和四五年年末一時金の交渉に当たり、組合が過大な要求をするのに対して、会社も、世間一般の例にならって、初めは比較的低額の回答し、以後交渉を重ねるうち順次小出しに増額していくという経過をたどったことが、かえって組合のストライキ等の争議行為を多発させ混乱を招いたという反省のもとに、翌年以降は、賃上げ等の額について最初から可能な最高限度の額を最終回答として提示し、以後の交渉においては上積みの回答をしないという趣旨の、いわゆる一発回答の方針を決めた。そして、昭和四五年一二月一七日、年末賞与支給の際に、厚木工場の従業員に対する訓示でその趣旨を述べた(森部社長が何時から「一発回答」という言葉を使ったかは証拠上必ずしも明確でないが、いずれにせよその趣旨とするところが右の時点で宣言されていたことが明らかである。)。そして、それが四六年春闘に臨む会社の基本姿勢となった。

(<証拠・人証略>)

二  他方、組合執行部は、昭和四五年年末一時金闘争において、ストライキ等の争議行為を繰り返しながら会社と徹夜団交を含む団交を重ねて譲歩を迫り、会社から順次回答の上積みを獲得したことをそれなりに評価して総括し、基本的には右闘争と同様に次の昭和四六年春闘も進めることを考えていた。そして、森部社長の右一発回答の宣言等もあって、一月中に、執行部としては、四六年春闘の賃上げについては情勢がさらに厳しくなるものととらえ、早期に闘争体制を整え、ストライキを含む強力な闘争を実施する方針を固めた。そこで、二月一日ころに春闘に入る旨の声明(ビラ)を出すとともに、情報宣伝活動や職場討議を行なった。二月二七日には、厚木本部の執行委員会と調布支部の支部執行委員会の合同執行委員会を開いて、賃上げ一五パーセントプラス一律金五八〇〇円等の執行部原案を決定した。三月九日、全体投票によりこれを会社に対する要求とすることを決定した。そして、三月一二日に行なわれた第一回団交において、別紙三記載のとおり、賃上げを定期昇給込みで一五パーセントプラス一律金五八〇〇円(会社側の計算では実質二七パーセント)とし、その他、中途採用者の問題、女子の日給・月給制の撤廃等の付帯要求を加えた内容の要求を提示し、三月二九日までに回答するように求めた。

これに対し、会社側は、損失を生じている会社の経営状況からは賃上げは不可能であるが、従業員のためには賃上げをしないわけにはいかず、何とか世間並の水準に近づけたいので、同業他社の回答状況を見極めてから回答したいと答えた。

なお、新組合も、三月一九日、会社に対し、組合の要求よりやや低額の要求を提出し、同月二六日を回答日と指定した。

(<証拠略>)

三  他の関連問題

1  右に先立つ二月二三日、会社は、合理化の一方策として、本社の社屋敷地を処分し、本社を調布工場の敷地内に移転させる必要があり、その場所を作るため、調布工場のVHF製造部門を約二〇〇名の従業員もろとも厚木工場へ移転させる計画を発表した。

組合は、VHF製造部の右従業員中約一五〇名が組合員であり、右移転は組合切りくずしの策であると受けとめたが、これについても春闘とあわせて交渉した。そして、前記の三月一二日に行なわれた第一回の団交の際、会社との間で、厚木工場へ通勤することの困難な従業員は調布工場内の他の部門へ配属し、厚木工場へ移転するについては赴任休暇、旅費等を認めること等を合意し、その後一部退職者は出たが、三月一八日ころまでに従業員の配属先が決定して、この問題は一応の決着をみた。

(<証拠略>)

2  次に、会社は、三月一八日、調布工場内のバリコン製造部の従業員三二名を同工場内の抵抗器製造部へ配置替えする旨を発表し、その理由として、関連会社の四国ミツミにおける抵抗器製造中止に伴う設備の引揚げと、四国ミツミから調布工場への出向者の引揚げであると説明した。

組合は、これも組合切り崩し策ではないかと疑い、会社側と交渉して、配置方法につき組合側の要望をある程度受け入れさせることができたが、その間、春闘要求と並行して、この件に対処することを余儀なくされた。

(<証拠略>)。

3  さらに、三月二三日、鈴木部長の発言の問題が生じた。

すなわち、鈴木章一は、三月一六日付で開発センター企画部長に就任した(開発センターは組織上は本社機構に属するが、厚木工場内に置かれていた。)。同人は、前記のとおり会社の業績悪化の一因に新製品開発の停滞が考えられたことから、その強化のため、系列のミツミ電子株式会社から招かれたものである。なお、開発センターには組合員ら多数が所属していた。鈴木部長は、就任早々から、開発業務の取り組み方について、開発センター所属の研究員、研究補助員らの従業員を十数名のグループに分けて打合せ会を開き、開発業務の取り組み方について自己の見解を示すとともに、従業員の意見を聴くためミーティングを行なっていた。そして、三月二三日の打合せ会において、開発・研究の成果を挙げるためには、勤務時間にとらわれず神経を集中させ、継続的に研究に専念する必要があるとの考えを述べたうえ、出席者の一人の組合員有坂の質問に答えて、就業時間中に組合活動のため頻繁に仕事を中断するということでは研究者としてやっていけないので、そのような者は他の部署へ移った方が良いとの趣旨を述べた。

すると、組合は、鈴木部長の右発言は、組合活動をやる者には開発センターを辞めてもらう趣旨であり、組合を敵視し支配介入するもので不当労働行為であるとしてこれを非難し、三月二四日以降、ビラを配布するなどして同部長解雇要求を宣言した。

会社は、四月五日、組合に対し、人事部長名の文書で、鈴木発言は個人的な考えであるものの、内容には不穏当なものがあり、本人に注意したが、組合を否定、敵視するものではなく、その真意を理解してほしい旨を申し入れた。また、四月八日、全従業員に向け、人事部長名の文書で、鈴木部長の発言は開発促進を思うが故のもので、その真意を理解してほしい旨を表明した。しかし、組合は、これを了承せず、後記の四月一三日の組合大会において、賃上げ要求等とともに、鈴木部長解雇要求についてもスト権を確立し、後記各ストライキにおいて春闘要求と並んで鈴木部長解雇要求をも標榜したほか、鈴木部長解雇要求のみについて四月二六日、五月六日、同月一〇日及び同月一七日にそれぞれ始業時から三〇分間の全面ストライキを行なった。

会社側は、組合が鈴木部長の発言の真意を曲解しているとして争った。しかし、結局、不本意ながら、六月一八日に、鈴木部長は、三月二三日の会議の席で不適当な発言をして組合員に精神的ショックを与え、組合、開発を混乱におとしいれたことに対し深く謝罪し、組合活動の自由を認める等の趣旨の組合宛の謝罪文に署名した。

(<証拠略>)

四  会社の回答まで

1  会社は、三月二九日に行なわれた団交において、前記のような理由で同業他社の回答が出揃ったところで、その状況を見極めて考慮しなければならないが、右回答が出揃うのが遅れているので、会社の回答は四月中旬以降になり、会社は今期赤字の見通しである旨告げた。四月一日にも団交が行なわれたが、特に進展は見られなかった。

四月三日、組合は、合同執行委員会を開き、春闘満額回答、鈴木開発企画部長解雇を要求してそれぞれストライキ権を確立する旨の方針を決定した。

四月六日に行なわれた団交で、会社は、賃金体系の資料を提出したが、賃上げは電機相場を見てから回答する旨を告げた。これに対して、組合は、四月一四日までに回答することを要求した。会社は、四月八日付文書で、組合に対し、四月一四日には回答しかねるが、四月二四日前後をめどに可能な限り早く回答する旨を通告した。また、人事部長名の四月九日付ビラで、全従業員に向け、回答を早く出せない前記のような理由と右回答予定時期を明らかにするとともに、そのことは三月二九日以来の団交において十分説明している旨を告げた。

組合は、会社の右態度は回答を引き延ばして一発回答を貫く方針の表れであるととらえ、会社に対し、四月一四日までに回答することを強く要求した。

(<証拠略>)

2  組合において、四月一三日にストライキ権投票が行なわれ、本社、調布工場、厚木工場を通じて、春闘要求について九一・六パーセント、鈴木部長解雇要求について七三・一パーセントの賛成によりそれぞれストライキ権が確立され、組合規約第三七条により、以後の争議行為の開始、打切り等の一切は執行委員会に委ねられることとなった。

これに基づき、四月一五日、合同執行委員会が開かれ、四月二三日の電機労連の第一波統一ストライキに合わせて半日ストライキをすること、五月中旬をめどに三〇時間前後のストライキを打って戦うこと、鈴木部長解雇要求について毎週月曜日の始業時刻から三〇分間のストライキをすること等が決定された。また、四月一四日から春闘妥結に至るまで、全面ストライキ以外の日は連日指名ストライキが行なわれ、これは、多数の組合員を指名してなされたこともあったが、多くの場合が組合役員を組合活動に従事させるために指名したものであり、これら指名ストライキについては事前の通告がないか、あっても直前になされることが多かった。

四月一五日に団交が行なわれたが、特に進展は見られなかった。

(<証拠略>)

3  会社は、四月一四日付文書で、組合に対し、同日には回答できないが、四月二四日前後をめどに可能な限り早く回答するように努力する旨を通告した。組合は、四月一四日付通告書で、会社に対し、以後一切の時間外労働を拒否する旨を通告した。

(<証拠略>)

4  組合は、四月二〇日付文書で、会社に対してその旨のスト通告をしたうえで、四月二三日に、既に決定していたとおり電機労連の統一ストライキに合わせて、半日ストライキを行なった。厚木工場においては、ストライキ時間中、職場集会、全体集会、構内デモが行なわれたほか、午後四時三〇分ころまで約一〇〇名の組合員が正門でピケッテイングを行ない(以下、本件においてピケッテイングとは、調布工場及び厚木工場内で就労しようとする新組合員を含む非組合員、業務を遂行しようとする会社職制、あるいはそこに出入構しようとする業者に対し、その出入構を阻止するために、組織された多数の組合員が見張り、呼びかけ、説得、又は実力等により働きかける行動をいう。)、また、調布工場では全体集会が開かれた。

一方、会社は、四月二二日、組合に対し、四月二四日に団交を開催することを申し入れ、その団交で春闘要求に対する回答をする旨通告した。

(<証拠略>)

5  会社は、四月二四日に行なわれた団交において、組合の賃上げ等の要求に対して要旨別紙四記載の回答をした。そして、会社は、その席上、これが最終回答である旨を通告し、また、同日社長名の同日付ビラで、従業員に対し、右回答が会社の現状からして最大で最後の線であり、誠心誠意検討を重ねた結果である旨を告げた。

右回答を組合の要求に対比すると、賃金増額を平均金七一九五円(基本給の一七・四三パーセント相当)としたほか、附帯要求の内、特殊作業手当ての増額、定時社員のベース・アップ係数の上昇、有給休暇の増加、作業衣の無料貸与、利益配分金の名称の変更、女子の日給月給制の月給制への移行等において組合の要求を一部は認めたが、他の項目については拒否し、あるいは将来の検討課題とする旨の回答であり、しかも女子の月給制については欠勤による控除を八〇パーセントとするうえ、男子についても同様とするというもので、この点は組合にはマイナス回答と受け取られた。

(<証拠略>)

五  会社の回答から五月中旬までの経過

1  組合は、四月二六日に開いた合同執行委員会において、四月中に一四時間位のストライキ、五月一〇日以降にも一四時間位のストライキを構え、五月中旬には集約する、賃金カットによる打撃を最少にして会社のダメージを大きくし、譲歩させるため、重点部門ストライキを行なうという方針を決定した。

そして、組合は、四月二六日付通告書で、会社に対し、会社の四月二四日の回答は全く認めることができないものであり、四月二七日正午までに春闘要求に対する回答を出すよう要求する、右期限までに回答がないときは、今後いかなる事態になろうとも、その責任はすべて会社側にあるとの趣旨の通告をした。

なお、二六日から前記の鈴木部長解雇要求の始業時三〇分間のストライキが行なわれた。

(<証拠略>)

2  会社は、四月二七日付回答書で、組合の右1の要求に対し、既にした回答は誠心誠意のものであり、再考の余地はない旨の回答をした。

組合は、同日午前中に文書で、会社に対し、正午までに満足のゆく回答のない場合には午後一時一〇分から五時二〇分までの間、本社、調布・厚木両工場においてストライキに突入する旨を通告し、また、調布支部としても同日付文書で、午後一時から全面ストライキに入る旨を通告したうえ、午後、各事業所において全面ストライキに入り、厚木工場では職場集会、全体集会、構内デモを行ない、正門でピケッティングをし、また、調布工場では全体集会が行なわれた。

なお、厚木工場においては、組合と会社との間で、四月二三日、「組合が四時間未満のストライキに入ったときは、会社は社用バスを定時又は随時に運行し、この場合に運輸係員は納品業務及びこれに類似する業務に従事しない。」という口頭による協定がなされていたが、四月二七日、会社は、組合に対し、争議行為中のバス運行は組合に対する便宜供与になるから、右協定を破棄する旨の通告をした。

(<証拠略>)

3  四月二八日、組合調布支部は、同日付文書でその旨通告のうえ午後一時から半日の全面ストライキを行ない、職場集会、全体集会を開いた。

同日、厚木工場においても、前記バス運行に関する協定の破棄に対する抗議の意味をも含めて、部門別に時刻を違えて行なう時限ストライキ(この形態のストライキを以下「時差部門ストライキ」という。)が行なわれた。これは、同日午前一〇時一〇分から一二時までチューナー製造部製造一課、三課、午後一時一〇分から三時まで同部製造二課、チューナー技術部、生産管理課、総務課等、三時一〇分から五時まで加工センター、開発センターにおいて順次組合員が業務を放棄し、職場集会を行ない、午後五時から五時二〇分まで全面ストライキを行なうというものであった。右ストライキについては書面による通告はなかったが、同日午前中に、原告藤原執行委員長が鈴木厚木工場長に対して口頭で右のような方法によるストライキを行なう旨を告げた。

なお、同日午後四時、鈴木工場長は、組合に対し、バス運行協定の破棄が誤りをおかした責任を認め、同日のバス利用者の遅刻扱いを撤回する旨の「謝罪」と題する書面を交付した。また、同日、新組合も、初めて午後半日ストライキを行なった。

(<証拠略>)

4  四月二九日に行なわれた団交(ママ)交渉においても、あくまで満額回答を要求するという組合側と、当初の回答を固持する会社側との間に歩み寄りの兆しはなかった。

組合は、厚木工場においては二九日午後一時一〇分から、調布工場においては同日午後三時一〇分からそれぞれ終業時までの全面ストライキを行なった。そのほかに、本社及び調布工場において、同日午後一時から本社の生産性本部中の基本設計グループ、外国部及び計算センター、調布工場の抵抗器製造部の吹き付けと蒸着の担当者、加工課成型係がいずれも無期限の重点部門ストライキを行ない、加工課のその余と表面処理課が午後半日ストライキを行なった。調布工場のこれらストライキについては、組合から会社に対し、同日付書面でその旨通告があった。右重点部門ストライキは、職場離脱の範囲は工場の一部であっても、連続あるいは関連する製造工程の重要な部分に位置する部署を対象とするため、全体の生産活動に大きな影響を与えるものであった。

(<証拠略>)

5  組合は、調布工場において、四月三〇日付文書でその旨通告のうえ、同日午後一時から半日の全面ストライキを行なった。さらに、本社及び調布工場において、前記重点部門ストライキを続け、厚木工場においても午前一一時から一二時までと午後二時一〇分から五時二〇分まで全面ストライキを行なった。新組合も、同日午後、半日の全面ストライキを行なった。

五月一日から五日までは休日であった。

五月六日、鈴木部長解雇要求の始業時三〇分ストライキと調布工場における重点部門ストライキが行なわれた。同日、合同執行委員会が開かれ、当初の予定を変更して長期決戦で戦うこと、電機労連が妥結した後も戦い抜くことを職場で確認すること等を確認し、なお、会社がロックアウト等を行なうことも予想されるので、その対応も考えておくことになった。

(<証拠略>)

6  会社は、社内報として週刊「おにぎり」を発行していたが、その五月六日付第二号において、社長名で「かけひきのない『一発回答』こそ最も誠意ある回答である」との見解を発表し、かつ、同号から団交の状況を会社側から知らせる「団交ニュース」を掲載するようになった。

(<証拠略>)

7  五月七日に行なわれた団交において、会社は月給制の問題について二項目の提案をしたが、実質的に歩み寄りといえるものではなかった。翌八日に行なわれた団交において、中間採用者の賃金是正についての話合いが行なわれたが、特に進展がなかった。右両日、本社及び調布工場においては無期限重点部門ストライキが継続された。また、五月七日、調布工場で半日ストライキが行なわれた。

(<証拠略>)

8  会社は、五月八日、課長以上の職制に対し、組合のストライキに対抗する措置を講じる必要が生じたため、一〇日にロックアウトについての研究会を開催するので、出席を求める旨を書面で通知するとともに、人事部長名の同日付ビラを従業員に配布して、ロックアウトの意義を説明するとともに、組合がこのままストを続けるとすれば、会社はやむを得ずロックアウトという非常手段を用いて対抗してければならない事態になりつつある旨を告げた。そして、一〇日には朝礼や社内放送でもロックアウトの可能性を告げ、社内放送で出席を督促したうえ、夕刻ロックアウト検討会を行ない、その後もロックアウトについて対応策を検討した。また、そのころから、調布工場においては重点部門ストライキの対象となった分野について工程を外注に出す動きがあった。

そこで、組合としても、会社の右のような動きも考慮に入れながら、闘争を進めることになった。

(<証拠略>)

9  五月一〇日の朝から、調布工場食堂小ホールにおいて、組合の中央委員会が開かれた(これについては、組合の集会の目的で会社から使用許可を得ていた。)。ところが、同日午後に、同ホールの社内放送用スピーカーの一つを利用して盗聴器と見られる装置が設置されているのが組合側によって発見された。

組合は、これについて、その状況から、会社側が組合の情報を得るために設置したものに相違ないとして会社を追及し、非難した。しかし、会社はこれを否定した。その後、会社、組合及び新組合の三者による調査委員会によって調査がなされたが、遂にこれを誰が設置したかは明らかにならなかった。

(<証拠略>)

10  五月一〇日、始業時三〇分間のストライキのほか、厚木工場においては、約一〇〇名の大量の指名ストライキが行なわれ、また、同日の午後と一一日の午前、午後にわたり時差部門ストライキが行なわれたが、一〇日の時差部門ストライキについては事前の通告がなく、一一日に文書で、同日分と一〇日分のストライキが併せて通告された。

また、調布工場においては、一〇日まで前記のような重点部門ストライキが続いてたが、一一日には、時差部門ストライキとして、午前八時一〇分から一〇時まで本社と抵抗器製造部、一〇時一〇分から一二時までバリコン製造部と加工課、午後一時一〇分から三時までコイル製造部と資材部、三時一〇分から五時までモーター製造部、バリコン・コイル製造部技術課、コイル受入検査係等と順次時限ストライキを行ない、各ストライキ時間中職場集会を開いた。これらは、製造工程において相互に関連し合う各部門が時間をずらして順次ストライキに入るもので、当該各部門での能率低下にとどまらず、全工場の作業の停滞をもたらすものであって、その影響は重大であり、最少の犠牲で最大のダメージを与えるという前記組合の方針の現れであった。しかも、右ストライキの通告した同日付文書には、「午前八時から午後五時までの間部門ストを行なう」と記載があるだけで、どの部門が何時からストライキに入るのかが全く不明なため、会社の対応を困難にし、事前の通告はなきに等しいものであった。

(<証拠略>)

11  五月一二日、厚木工場においては、百数十名にのぼる指名ストライキが行なわれ、午後には開発センター等の部分時限ストライキが行なわれた。本社、調布工場においては、終日、六日以来と同様の重点部門ストライキが行なわれた。

(<証拠略>)

12  五月一三日は、本社、調布工場においては、同日付文書で会社に対し、「午前八時から午後五時までの間、部門部分ストに入る」と通告をしただけで、同月六日以来と同様の重点部門ストライキ、一一日と同様の時差部門ストライキを行ない、職場集会を開いた。また、厚木工場においても、同日付文書で会社に対しその旨通告したうえ、前日に引き続き午前から時差部門ストライキを行なったほか、指名ストライキを行なった。

また、一三日には団交が行なわれ、会社と組合の間に依然歩み寄りはなかった。その終了にあたり、組合は、会社に対し、次回の団交を五月一九日に行なうことを申し入れたうえ、それまでは闘争をエスカレートさせないから、会社の誠意ある回答を期待する旨を申し入れた。

なお、一三日から、電機労連の一〇組合は、金八〇〇〇円ないし金九〇〇〇円の賃上げの回答を不満として、四八時間のストライキに入った。

(<証拠略>)

13  五月一四日には、厚木工場では一〇〇名余の指名ストライキ、午後三時一〇分以後の全面ストライキが行なわれ、調布工場では前日同様の無期限の重点部門ストライキを継続した。

五月一五日、組合は、合同執行委員会を開き、そこで、以後の一週間が四六年春闘の一つの山になるものと考え、次回の一九日行なわれる予定の団交までは闘争のエスカレートを控えるが、右団交で会社から誠意ある回答のない場合には七二時間の全面ストライキ等の闘争に強化するという方針を決定した。そして、一七日付団交申入書で、改めて会社に対して一九日の団交の申し入れるとともに、そこで会社の誠意ある回答を期待し、時間制限なく双方納得ゆくまで話し合いたいと通告した。なお、組合は、五月一七日には、始業時三〇分間のストライキのほか、調布工場において重点部門ストライキを継続し、一八日にも範囲を縮小した同様のストライキを行なった。

一方、会社は、社長名で五月一七日付の「一発回答の意義」と題する書面を従業員に配布し、一次回答が最大限で最後の回答であることについて改めて理解を求めた。

(<証拠略>)

六  五月一八日以後の経過について

1  会社と新組合との間では、五月一八日、会社の一次回答と同一の一人平均金七一九五円の賃上げ等で交渉が妥結した。しかし、組合執行部は、同日中はその事実を知らなかった。

(<証拠略>)

2  組合の五月一九日の団交の申し入れに対して、会社は、同月一八日付文書で、「賃上げは一次回答のとおりであり、変更の意思がなく、今後団交を重ねても進展がないことを承諾し、かつ、団交時間を午前九時三〇分から正午までに厳守することを確約するならば、団交を受ける。」旨の回答をした。会社としては、右回答の前段は、組合の前記一七日付団交申入書に「誠意ある回答を期待する」との記載があったので、組合の主張する満額回答でなければ誠意ある回答でないとして非難されることが予想されたからであり、後段の条件は、昭和四五年の年末一時金要求の団交が、その行なわれている前の廊下に組合員が座り込んだことなどから徹夜に及んだことがある経験から考えたものであったが、組合側は、右回答を実質的な団交拒否と受け取った。

(<証拠略>)

3  五月一九日、組合は、右実質的団交拒否に抗議するため、急遽始業時三〇分間の全面ストライキを行なったうえ、午前九時三〇分からの団交に臨んだところ、丁度そのころ、会社は、新組合と五月一八日に賃上げ等で交渉が妥結した旨の文書を従業員に配布した。

団交開始後、会社側団交委員長篠原副社長は、午前一〇時三〇分ころ所用のため退席した。組合側は、右退席は会社側が団交を不当に打切ろうとするものであると考え、右打切りを阻止するため、調布支部において一〇時四五分から全面ストライキに入ることを急遽決定し、組合員多数が団交会場の本社内講堂前の廊下につめかけ座り込む事態となった。そのため会社側も午後四時まで団交を続けることに同意した。

しかし、組合はあくまで先の回答の上積みを要求し、会社は先にした回答は一発回答だからそれに上積みはできず、新組合と妥結したからなおさら上積みはできないと主張し、結局団交の内容には進展が見られなかった。

組合は、本社、調布工場においては前記時刻から引き続き、厚木工場においては午後一時からそれぞれ終日全面ストライキを行なった。

(<証拠略>)

4  五月二〇日、組合は、調布、厚木両工場で前日に引き続き全面ストライキを行ない、調布工場では午前七時三〇分ころから午後八時一〇分ころまで正門でピケッティングを行ない、また厚木工場では午前九時ころから正門及び北門でピケッティングをした。

同日、組合は、合同執行委員会を開いて、五月二二日に以後の闘争方針として、二四日、二五日と二七日、二八日とにそれぞれ四八時間の全面ストライキを行ない、非組合員の入構、操業を阻止するためピケッティングを行なう、二五(ママ)日は給料日なのでストライキはやらない、五月一杯で決着をつける旨の方針を立てた。

(<証拠略>)

5  五月二一日は、厚木工場において、同日付文書でその旨の通告のうえ、チューナー製造部生産管理課の無期限重点部門ストライキ及び指名ストライキを行なった。本社、調布工場においては、六日以来と同様の重点部門ストライキを行なった。

(<証拠略>)

6  五月二二日も前日と同様のストライキから始まり、厚木工場では午後一時から、本社、調布工場では午前一〇時三〇分からそれぞれ全面ストライキに入った。会社側は、同日夕刻、調布工場から測定器、部品、治工具等ライトバン一台に積める程度を運び出し、本社や関連会社に運んで、ストライキにより同工場での操業が不能となった場合の社外生産に備えることとした。

他方、組合執行部は、二二日付のビラで、組合員に対して、前記4のとおり、二四日、二五日と二七日、二八日とにそれぞれ四八時間の全面ストライキを行ない、非組合員の入構、操業を阻止するためピケッティングを行なう予定であることを知らせるとともに、スクラムの組み方を詳細に説明し、なお、組合組織率の高い厚木工場の組合員が調布工場へ応援に出るよう呼びかけ、かつ、二三日夜からの泊り込み要員を募った。

(<証拠略>)

7  五月二三日(日曜)、会社は、調布、厚木両工場において、正門から組合事務所まで一メートル巾の通路を示す二本の白線を引き、看板と文書をもって、ストライキ中の組合員がこの通路と組合事務所以外の場所に立ち入ることを禁ずる旨を通告した。

同日夜、原告藤原執行委員長は、他の組合役員三名とともに森部社長の自宅を前触れなく訪れ、森部社長に面会して話し合いをし、事態収拾のため歩み寄りの余地はないかを質した。森部社長は、団交で会社側が説明している趣旨を繰り返して、歩み寄りはできない旨を答え、原告藤原執行委員長がそれでは組合としては闘わざるを得ないと述べたのに対して、森部社長も、組合の理解が得られずあくまで戦うというのであれば、会社としても受けて立たざるを得ない旨述べて、結局、森部社長からも、原告藤原執行委員長からも上積み額の提示等はないまま、話合いは決裂した。

(なお、原告藤原の<証拠略>及び本人尋問の結果中における供述中、右会談の際に森部社長が「一〇〇日戦争をしてでも断固闘う。組合の無条件降伏あるのみだ。」と述べた旨の部分は、被告会社代表者森部一の尋問の結果(<証拠略>)に対比して直ちに採用しがたいが、右認定のとおり、会社側から妥協に向かう意思が全くないという趣旨を社長が述べたことは明らかである。)

8  五月二四日、二五日に、本社、調布及び厚木両工場において四八時間の全面ストライキが行なわれ、両工場においてピケッティングが行なわれた。厚木工場における右ストライキについて二四日付文書でその旨の通告はあった(本社・調布工場におけるそれについて文書による通告がなされたことは確認することができない。)。その間、組合は、ビラによっても、組合員に対しては闘争強化等を、新組合員・未加入者に対しては組合との団結ないしスト破りをしないこと等を訴えた。

(<証拠略>)

9  五月二六日は給料日であったため、組合は当初同日のストライキを予定していなかった。しかし、調布工場においてロックアウトが行なわれる危険があると判断した執行部は、二五日夕方に合同執行委貝(ママ)を開催してその旨の決定をしたうえ、二六日朝同工場に出勤してきた組合員に緊急の指示をして全面ストライキに入り、ピケッティングを行なった。さらに厚木工場では約三〇〇名の男子全員について指名ストライキの通告をして、調布工場への応援に赴かせた。右指名ストライキの会社に対する通告は事後になされた。

そして、小美濃調布支部副支部長と小池人事部長の間で、給料の支払について折衝した結果、午後二時ころ、支給は午後四時ころから本社で行なうが、非組合員の従業員が工場内に置いてある印章を取りに入る際はピケッティングを解くこととし、相互に挑発行為を行なわない等の協定が成立し、組合は、午後三時半ころ正門のスクラムに通行口を開けて非組合員を通した。午後四時四〇分ころ、右協定成立の動きを聞知していなかった職制らが製品搬出のため営業車を調布工場に入構させようとし、組合側は、これを右協定に違反するものとし、再びピケッティングを強化した。

同日、原告藤原執行委員長は、団交委員でもある水野調布工場副工場長に、「事態収拾のため解決の糸口を見出したいが、骨を折ってもらえないか。」との相談をもちかけ、水野副工場長は、「やるだけのことはやってみよう。」と答えた。

同日、会社は、厚木工場から若干の製品等を運び出した。

(<証拠略>)

10  五月二七日、二八日には、組合は、文書で、会社に対しその旨通告したうえ、調布、厚木両工場において連続四八時間の全面ストライキに入り、各門でピケッティングを行なった。

会社は、二六日夜に翌朝就労者が入構することができるように厚木工場の正門、北門の各門扉を開けた状態で鎖を巻いて鍵をかけて固定したが、翌朝に組合によって右鎖が切断されるなどしてその目的を達しなかった。組合は、二七日以降も右各門扉をほとんど閉鎖した。

(<証拠略>)

11  会社は、組合のピケッティングによる就業及び製品搬出の阻止が続くため、社外生産を始めることにし、五月二七日ころから関連工場、外注工場の一部を借り、調布工場の非組合員約四〇〇名で、五月二三日までに搬出していた若干の治工具等を用い、一部は借受工場の遊休設備を使用して生産を始めた。しかし、設備、治工具等が揃わないなど諸々の悪条件が重なり、通常の一〇パーセント以下の低能率で、本来の生産体制のそれに比して甚だしく劣るものであった。

そのころから以降連日にわたり、会社は、取引先の各社から製品納入を厳しく督促され、直接来社した各社の担当者らから、このまま製品の納入がないと製造ラインを止めざるを得ないなどと切羽詰まった状況を訴えられた。そして、その一部からは、発注を他の会社に切り替えられたり、二社購買に切り替えられたり、従前の取引を維持するならば価格を下げることなどの要求を受けるようになった。

(<証拠略>)

12  五月二七日、前日に水野副工場長が原告藤原執行委員長から受けた申入れに基づき、組合側の原告藤原執行委員長ほか三名、会社側の篠原副社長ほか三名の間で非公式交渉が行なわれ、組合側が「会社のメンツから賃上げとしてのめないのなら、食事手当としてでもいいから一〇〇〇円を上積みしてほしい。」と要望し、会社側は「社長の意向を聞いて検討する。」旨答えた。しかし、翌二八日、会社側から、水野副工場長を通じて原告藤原執行委員長に、右要求にも応じられないとの回答が伝えられた。

(<証拠略>)

13  森部社長は、五月二四日以来の組合による入構等の阻止による操業停止の状態に至っていることに鑑み、管理職の結束を固める必要があるとの判断から、同月二七日に本社、調布工場及び厚木工場において、それぞれ課長以上の管理職を集めて、その趣旨を説明したうえ、同日付の「誓約書」と題し「私はミツミ電機株式会社の役職者として、今回の争議に際し、社長の方針に従って行動を共にし、統率を厳守することを誓います。万一、これに反する言動のあるときは、別紙提出の退職届を正式に受理されても異存のないことを、ここに連判して誓約致します。」と記載した書面に連署させ、各自から同時に退職届を提出させ、これを預り置いた。なお、右退職届は、春闘妥結後の七月五日、社長名の感謝文とともに各自に返還された。

(<証拠略>)

14  五月二九日は休日であったが、組合は、ロックアウトを警戒して、調布工場において引き続きピケッティングを行なった。同日、組合側の原告藤原執行委員長ほか三名と会社側の森部社長、原口副社長との間にトップ交渉が行なわれた。組合側は、会社の譲歩を求め、これに対して、森部社長らは、事態を収拾しなければならないとは考えるが、組合の入構阻止等違法な闘争手段を背景として組合の要求に応ずることは、今後の規律保持、労使関係に悪影響を及ぼすので、まず、組合が違法な闘争をやめることが先決である旨述べ、なお、組合側で収拾可能な具体的条件を考えるよう求めて、会談を終えた。同日、組合は、会社に対し、五月三一日に団交を行なうよう申し入れた。また同日、合同執行委員会が開かれ、森部社長の右発言を受けて組合側の具体的な妥協案を検討した結果、<1>賃上げは月額八〇〇円を上積みし、ただし、本年度は一時金として一年分の金九六〇〇円を支給し、翌年以降の賃上げに月額八〇〇円を底上げすること、<2>有給休暇を若干増加すること、<3>中間採用者の賃金是正をモデル賃金の八五パーセントまで行なうことを会社に提案する旨決定した。

15  五月三〇日も休日であったが、組合は、調布工場においてピケッティングを行なった。

同日、合同執行委員会が開かれ、東京都地方労働委員会に斡旋を申請すること等の方針を決定した。

同日、原告藤原執行委員長と森部社長が会談し、原告藤原は、前日の合同執行委員会の決定に基づき、組合側の妥協案として、前記14の<1>ないし<3>の要求を述べ、森部社長は、検討のうえ、翌日の団交の席で回答する旨述べた。

同日、会社は、翌三一日には、組合が団交時間中入構、搬出入を阻止しないことを条件として団交に応じる旨の回答をした。

16(一)  五月三一日、組合は、全面ストライキを行ない、調布工場各門でピケッティングを行なった。

(<証拠略>)

(二)  五月三一日の団交について、組合は、会社の示した条件について、交渉が行なわれている間は製品搬出の妨害をしない旨を約束し、会社もこれを了解した。そこで、三一日午後五時一五分ころから団交が行なわれた。

そこで示された前記14の要求に対する会社の回答は、「<1>時間外労働協定(三六協定)は、前年どおり、一年間について締結すること、<2>争議協定を会社提案どおり締結すること、<3>右の二点を前提として、中間採用者の賃金をモデル賃金の八〇パーセントまで是正すること、<4>その余の二項目は受け入れられないこと」というものであった。そして、会社は、右回答に併せて、今回の争議において違法行為のあった幹部は処分せざるを得ない旨を述べた。

組合側団交委員は、会社の回答に、これまでになかった新たな条件が付され、しかも処分の予定を告げられたこと等に憤激して席を蹴って立ち、団交は約一〇分間で決裂した。そして、原告鈴木調布支部支部長は、直ちに団交会場から電話で調布工場の組合員に指令して、製品搬出を阻止させた。

(三)  五月三一日、会社は、組合を相手方として、裁判所に妨害排除の仮処分を申請し、翌六月一日には、その事実を放送及びビラで従業員に発表した。右仮処分事件の審尋期日は六月五日と指定された。

(<証拠略>)

17  六月一日から四日まで、組合は、調布、厚木の両工場において終日全面ストライキを行ない、調布工場では正門、裏門でピケッティングを行なった。

18  六月二日夜、組合は、合同執行委員会において今後の闘争方針につき検討した結果、もともと闘争資金のない組合としては、これ以上全面ストライキを継続することは困難であると判断し、同月四日を最後に連続全面ストライキを止めて就労し、以後は東京都地方労働委員会に斡旋申請をし、指名ストライキを行なうこと等の方針を決定した。

そして、六月四日、右執行委員会の方針が組合の職場集会、全体集会等において承認された。そこで、現段階の会社回答で妥結することもやむを得ないとの結論になり、六月四日限り全面ストライキを終結した。

(<証拠略>)

19  会社は、六月四日開いた臨時役員会において、新組合員、組合未加入者を対象として、社外の悪条件下での労務に謝する意味で、就労感謝金一人二〇〇〇円を七日に支給することを決定し、その旨を発表した。また、組合が六月七日からの就労を決定すると、組合員にも、七日に就労したことが確認された後に同額を支払う旨を通告した。そして、右就労感謝金は支給された。

(<証拠略>)

七  全面ストライキ解除後の経過について

1  六月七日朝から組合員は就労したが、同日以後も連日組合役員について指名ストライキが行なわれた。また、翌八日には、調布工場のコイル製造部製造課等の多数の者を指名して実質上部分ストライキというべき指名ストライキが行なわれた。

(<証拠略>)

2  六月九日、組合の斡旋申請による東京都地方労働委員会の事情聴取が行なわれたが、会社は、先の回答に上積みをする余地はないとして、斡旋を拒否した。

(<証拠略>)

3  六月八日、一〇日、一五日、二五日にそれぞれ団交が行なわれ、組合は、賃上げについては会社回答のとおり妥協せざるを得ないとの結論に達していたが、会社側が三六協定及び争議協定の締結を求め、さらにはこれを春闘要求に関する協定締結の条件とするに至ったため、これについて交渉が重ねられた。そして、七月一日、事務折衝で三六協定及び争議協定の内容について一応の合意ができ、これについては春闘妥結とは別個に協定を締結することを会社も承諾したので、七月二日春闘妥結の運びとなった。

(<証拠略>)

4  七月二日、組合と会社との間で、昭和四六年度賃金改訂及び付帯要求に関する要旨別紙五の内容の協定が締結された。

(<証拠略>)

5  七月六日、三六協定が締結されたが、争議協定については、結局内容について完全な合意が得られず、締結に至らなかった。

6  会社は、七月八日、就業規則上懲戒処分をするについて社長の諮問機関となっている懲戒委員会を開催し、その答申を受けたうえ、翌九日に同日をもって原告らに対し懲戒解雇する旨通告した。

なお、同月九日に同日をもって吉田和男調布支部書記長、小原昇執行委員、小川猛夫中央委員、有坂正一組合員に対しても懲戒解雇する旨通告し、同月一二日には一六日付をもって、福島喜勝書記長、小美濃勝調布支部副支部長、山崎芳広副執行委員長に対していずれも六か月減給(基本給月額の一〇パーセント減給支給)、山口実財政部長、池内大明中央委員、森田芳昭組合員に対しいずれも三か月減給(基本給月額の一〇パーセント減給支給)、深井宗吉組合員に対し一か月減給(基本給月額の一〇パーセント減給支給)の各処分を通告した。

(<証拠略>)

第四  そこで、事件<1>ないし<40>を中心とした四六年春闘の状況について判断する。

一  当時争議の現場となった会社の本社、調布工場及び厚木工場の各施設の状況並びに右各所における組合員数は、以下のとおりである。

1  本社は東京都狛江市小足立に所在し、別紙六「旧本社配置図」及び別紙七「旧本社建物平面図」記載のとおり、木造二階建モルタル塗瓦棒葺の社屋等が建築されていた(<証拠略>)。

2  調布工場は、右本社から約三〇〇メートル、徒歩約五分の東京都調布市国領町に所在し、敷地面積は約一万二〇〇〇平方メートルであり、別紙八「調布工場一階平面図」記載のとおり、敷地内の主な施設は、バリコン工場(鉄筋コンクリート造三階建)、コイル工場(鉄筋コンクリート造四階建)のほか、別棟の表面処理工場、食堂等がある。工場周囲は、南及び東、西側の三方は他社の工場に隣接しており、北側だけは幅五メートルの公道に接し、この公道に面して高さ約一・六メートル、厚さ約一二センチメートルの石塀がめぐらされており、その東側から順に正門、裏門、北側非常門の三つの門がある。正門は、工場敷地東角に公道からやや奥に入った位置に設けられており、開口部幅は約六・九メートル、門扉は高さ約一・五五メートルの鉄製柵状のもので、門内側に設けられたレール上をスライドする左右両開きの形式である。通常正門は朝から夕方まで開門されていた。裏門は、開口部幅が約四・九六メートル、門扉は観音開き高さ約一・六メートルの鉄板製で、閂に南京錠で施錠するものである。通常裏門は施錠されており、朝夕の従業員の入退社時間帯及び製品の搬出入の際に警備員が錠をはずして開門していた。北側非常門は、開口部幅約一・二六メートル、門扉は観音開き高さ約一・六メートルの鉄板製で、閂で閉門するものである。さらに、工場西側の他社工場に接して、コイル非常門があり、その開口部幅は約一・五七メートル、門扉は観音開き高さ約一・六メートルの鉄板製で、木製閂で閉門するものである。敷地内は、正門外側公道からみると、正門内側中央が前庭に通じる幅約八・五メートルの通路となっており、この通路を挟んで東側(公道側から向って左側)には面会所・守衛室の建物、西側(公道側から向って右側)には表面処理工場の建物があり、表面処理工場の南側(公道側からみて奥側)にはバリコン工場の建物がある。バリコン工場の西側は中庭を挟んでコイル工場の建物、バリコン工場南側(敷地南角)には食堂の建物がある。

(<証拠略>)

3  厚木工場は、神奈川県厚木市に所在し、敷地面積は約八万九〇〇〇平方メートルであり、別紙九「厚木工場見取図」記載のとおり、敷地内の主な施設は、本館(チューナー工場、管理部、食堂等)、一号館(表面処理工場)、二号館(機械及び金型工場等)、三号館(IC工場・通称セラミック工場)のほか構内社員寮四六棟等がある。工場周囲は、東側は国道一二九号線、他の三方はいずれも市道に面して、鉄製外柵(正門左右には高さ約一メートルの柵状のもの、敷地北東角から北門までは高さ約二メートルの金網状のもの)がめぐらされており、東側敷地ほぼ中央に正門が設けられているほか、他の三方にそれぞれ北門、西門、南門がある。正門は、国道から約一一メートル奥まった位置にあり、開口部幅約一五メートル、門扉は高さ約一・二メートルの鉄製柵状のもので、門内側に設けられたレール上をスライドする左右両開きの形式である。通常、正門は、製品の搬出入、従業員の通勤送迎バスの出入等に用いられていた。北門は開口部幅が約九・五メートル、門扉は高さ約一・一四メートル余の鉄製柵状(上部は有針鉄線張り)のもので、正門同様の左右両開き形式で南京錠で施錠するものである。通常、北門は従業員の入退社時間帯だけ開かれるほか、特別な場合の入出荷に使用されていた。西門は開口部幅約一〇メートル、門扉は高さ約二・四メートル余の鉄製柵状(上部は有針鉄線張り)のもので、正門同様の左右両開き形式で南京錠で施錠するものである。通常西門は閉鎖されており、月一回も使用されないほどであった。南門は、開口部幅約六・五八メートル、門扉は高さ約二・八メートル余の鉄製柵状(上部は有針鉄線張り)のもので、二枚折戸の左右両開き形式で閂に南京錠で施錠するものである。通常、南門は構内寮にいる従業員の出入りに使用されていた。敷地内は、正門を入って正面約四四メートルのところ(敷地東側の北寄り)に本館建物があり、その裏(敷地中央部)のテニスコート、グラウンド等を挟んで、敷地西側北寄りに一号館から三号館までの建物が並び、敷地南寄りには西側に従業員寮が建ち並び、敷地南東角はロッカー前広場(南広場)となっている。

(<証拠略>)

4  昭和四六年四月末当時、本社従業員二八二名(男子一九四名、女子八八名)中、組合員は三一名、新組合員は一五名、非組合員は二三六名であり、調布工場従業員一七一八名(男子三八二名、女子一三三六名)中、組合員は一〇〇七名、新組合員は二七一名、非組合員は四四〇名であり、厚木工場従業員一二一六名(男子五七九名、女子六三七名)中、組合員は九六三名、新組合員は一名、非組合員は二五二名であった。

(<証拠略>)

二  事件<21>(四月一九日、厚木工場)

(証拠略)並びに弁論の全趣旨によれば、斉藤征吾及び嘉戸正広は、厚木工場のチューナー製造部生産管理課購買係に所属し、組合の中央委員であったこと、右両名が勤務時間中の四月一九日午前一一時三〇分ころ、同課倉庫係として作業中の川村ひろ子の傍らへ赴き(ただし、右嘉戸は若干遅れてきた)、右両名で、同日調布工場から転属されたばかりの同人に対し「組合に入らないか。」など声をかけ、同人が既に新組合に入っている旨答えたところ、さらに「厚木へ来たんだから組合に入った方がいい。」、「組合に入るように考えておいてほしい。」などと言って組合への加入を勧誘したこと、その間、約三分間ないし五分間で、右両名はそれ以上執拗に勧誘することなくその場を離れたこと、以上の事実が認められる(ただし、右事実中、厚木工場所属組合員である斉藤征吾及び嘉戸正広が四月一九日、川村ひろ子に対し「組合に入らないか。」と声をかけたことは、当事者間に争いがない。)。

しかし、右勧誘が原告藤原の具体的指示に基づくものであること、又は勤務時間中の組合加入勧誘が組合執行部の方針に基づくものであることについては、これを認めるに足りる証拠がない。

三  事件<22>(四月二三日、厚木工場)

(証拠略)並びに弁論の全趣旨によれば、次の事実が認められる(ただし、次の事実中、四月二三日、組合が厚木工場正門でピケッティングを行なったこと、同日午後三時ころから約三〇分間構内デモを行なったこと、同日、組合が厚木工場の本館、一、二号館の窓ガラス、壁面の支柱等にビラを貼付したことは、当事者間に争いがない。)。

1  四月二三日午後二時四〇分ころから四時三〇分ころまでの間、原告藤原執行委員長、山崎副執行委員長、福島書記長及び小川中央委員の指揮のもとに、五〇名ないし八〇名位の組合員が厚木工場正門の通路一杯に数列の横隊でスクラムを組んでピケッティングを行ない、北門でも約一〇名の組合員がスクラムを組んでピケッティングを行なって、それぞれ入出構、入出荷を阻止する態勢をとった。その間、会社の職制、守衛らが再三にわたり右ピケッティングを止めるよう警告して抗議したが、これを解除しなかった。

2  午後三時一〇分ころから三時五〇分ころまで、厚木工場構内本館前通路において、五〇〇名以上の組合員らが笛で音頭をとり、ワッショイ、ワッショイの喚声をあげながらジグザク型に行進するデモを繰り返した。

3  また、同日午後四時三〇分ころ以降、原告藤原執行委員長の指揮のもとに、約六〇〇名にのぼる組合員が、厚木工場の本館、一号館、二号館の窓ガラス、壁面の支柱、鉄柱、窓枠、扉、階段、廊下の壁等の至る所に「スト決行中」、「鈴木部長追放」、「春闘勝利」、「要求貫徹」などと記載した、わら半紙の縦割半分大のステッカーないしビラ(以下単に「ビラ」という。)を貼付し、またビラを並べて貼ることにより「カイコスズキ」などの大文字を作出し、その枚数合計は数百枚にのぼり、窓ガラスは透視困難なほどになった所もあった。同日中に玄関のガラス扉のビラのみは守衛が剥がしたが、到底短時間に剥がしきれる量ではなく、また剥がした跡も糊が醜く残り、特に鉄製の箇所(窓枠、鉄柱、鉄扉等)ではビラを剥がした跡の塗装も剥がれ、その跡は時日の経過とともに錆を生じて醜悪な状態となった。

以上の事実が認められる。

なお、被告は、右3のビラの貼付に用いられた糊は通常の糊ではなく、鉄を腐食させる化学薬品を混入したものであると主張する。しかし、普通の澱粉糊であってもビラを剥がす際にある程度塗料も剥がれることは避けがたく、その跡には発錆する場合もあり得ることは容易に推測されるところであり、(証拠略)の写真に見られる状況によっては故意に化学薬品を使用したものと直ちに認めることはできず、(証拠略)の記載中の右主張に沿う部分によっても未だ右主張事実を認めることはできず、他にこれを認めるに足りる証拠はない。

四  事件<23>(四月二四日、厚木工場)

(証拠略)並びに弁論の全趣旨によれば、四月二四日午後零時二〇分ころ、組合員が、守衛の制止を無視して、厚木工場正門横の鉄製外柵に赤旗二本を針金で縛りつけて設置したことが認められる(ただし、右事実中、組合が同日厚木工場正門横の鉄製外柵に赤旗二本を設置したことは、当事者間に争いがない。)。

五  事件<24>(四月二六日、厚木工場)

(証拠略)並びに弁論の全趣旨によれば、山崎副執行委員長外一名が、四月二六日午前八時ころ、守衛の制止を無視して、厚木工場正門横の鉄製外柵に赤旗七本を針金等で縛りつけて掲げ、その後守衛がこれを取り外してその場に置いておくと、再び組合員が設置するということを午前一〇時ころ、午後三時三〇分ころ及び午後五時ころと三度繰り返し、三時三〇分ころ以降は赤旗の数も一二本になったことが認められる(ただし、右事実中、組合が四月二六日厚木工場正門横の鉄製外柵に赤旗七本を設置し、会社側がこれを撤去したところ、組合が再度同所に赤旗一二本を設置したことは、当事者間に争いがない。)。

六  事件<25>(四月二七日、厚木工場)

(証拠略)並びに弁論の全趣旨によれば、次の事実が認められる(ただし、組合が四月二七日午後一時一〇分ころから午後三時ころまで厚木工場の正門、北門でピケッティングを行ない、約一五分間構内デモを行なったことは、当事者間に争いがない。)。この認定を左右するに足りる証拠はない。

1  四月二七日午後一時一〇分から午後三時ころまでの間、厚木工場の正門において約五〇名、北門において約四〇名の組合員がスクラムを組んでピケッティングを行ない、入出構を阻止する態勢をとった。

2  同日午後二時三〇分ころから午後三時ころまで、正門付近から本館前までの構内通路において、原告藤原執行委員長、山崎副執行委員長、福島書記長らの指揮のもとに、約四〇〇名の組合員が笛に合わせ、ワッショイ、ワッショイの喚声をあげ、あるいは労働歌を高唱しつつ、ジグザグデモを行なった。その間、会社の職制、守衛らが再三にわたり右デモ等を止めるよう警告して抗議したが、これを無視した。

七  事件<1>、<2>(五月七日、本社、調布工場)

(証拠略)並びに弁論の全趣旨によれば、五月七日午後一時四〇分ころ、吉田調布支部書記長の引率した約四〇名の組合員が、職制らの制止を無視して、本社の正面玄関扉のガラス、窓ガラス、ブロック塀等に「春闘勝利」、「団結」、「一五パーセントプラス一律五、八〇〇円」等と記載した約二〇〇枚のビラを貼付したこと、また、同日午後五時ころから午後九時ころまでの間に、数十名の組合員が調布工場内の食堂、バリコン工場ロッカー室等の窓ガラス及び外壁等に右同様記載の約八〇枚のビラを貼付したこと、これらのビラを剥がした箇所のうち鉄製部分については、後日赤錆を生じたこと、以上の事実が認められる(ただし、右事実中、組合が、同日本社のブロック塀外側に前記記載したビラを貼付し、また、調布工場のバリコン工場食堂、ロッカー室等の窓ガラス等にビラを貼付したことは、当事者間に争いがない。)。

八  事件<26>(五月一一日、厚木工場)

(証拠略)並びに弁論の全趣旨によれば、次の事実が認められる(ただし、右事実中、同日、厚木工場の合同朝礼において鈴木美憲厚木工場長が発言した後、原告藤原執行委員長が「質問」、「質問」と連呼したことは、当事者間に争いがない。)。この認定を左右するに足りる証拠はない。

1  鈴木美憲厚木工場長は、五月一一日午前八時二〇分ころから同工場本館内食堂において製造部門の従業員約七五〇名を集めて行なわれた合同の始業朝礼において、前月の各製造部門別及び同工場全体の生産計画量と実績、達成率を発表した後、組合の春闘要求に触れ、「会社は、誠心誠意できる限りの回答を行なったのであるから、社員の皆さんも会社の現状を認識して生産目標の達成に向けて協力してほしい。」という趣旨を訓示した。

なお、会社と組合との間には、前年の夏期一時金要求の際の団交の確認事項として、「朝礼その他において組合の批判は行なわない。」との合意があった。

2  原告藤原執行委員長は、同工場製造部所属ではなく、しかも組合専従で、右朝礼に出席すべき立場にはなかったが、四六年春闘の長期化に伴い、朝礼等で組合批判の発言がなされるかもしれないと考え、右朝礼に途中から出席していた。そして、原告藤原は、鈴木工場長の右発言を聞くと、直ちに「質問」、「質問」と連呼しながら、鈴木工場長の方へ歩き出して以後の朝礼を妨害し、これを阻止し場外へ連れ出そうとする職制らと原告藤原及び組合員らとの間に小競り合いとなった。

3  そこで、午前八時四五分ころ、鈴木工場長は、朝礼の終了を宣言して退出しようとしたが、鈴木工場長を退出させようとする職制とこれを阻止すべく「工場長逃げるのか。」などと叫んで通路に立ちはだかった組合員らとの間に揉み合いとなって騒然となり、鈴木工場長の退出できない状態が数分間続いた。

九  事件<27>(五月一七日、厚木工場)

(証拠略)並びに弁論の全趣旨によれば、厚木工場チューナー製造部生産管理課購買係所属従業員であり組合の執行委員であった伊東明が、指名ストライキ中の五月一七日午前九時ころ、同工場コック倉庫内で一人で出庫業務に携わっていた川村ひろ子のところへ赴き、同人に対して約一〇分間にわたり組合への加入を勧誘したことが認められる。

これに反する(証拠略)の記載は信用しがたく、他にこの認定を覆すに足りる証拠はない。

しかし、右勧誘の際、川村ひろ子を恐怖に陥れた旨の被告主張事実については、これに沿う(証拠略)の記載は直ちに採用することができず、他にこれを認めるに足りる証拠はない。また、前記の事件<21>の場合と同様、右組合加入勧誘行為が原告藤原の具体的指図に基づくものであること、又は勤務時間中の組合加入勧誘が組合執行部の方針に基づくものであることを認めるに足りる証拠はない。

一〇  事件<3>(五月一九日、本社)

(証拠略)並びに弁論の全趣旨によれば、次の事実が認められる(ただし、次の事実中、五月一九日の団交の際、組合員らが団交会場である本社講堂前廊下につめかけたことは、当事者間に争いがない。)。この認定を左右するに足りる証拠はない。

1  五月一九日午前九時ころから、本社二階講堂において会社と組合の団体交渉が行なわれたが、同日午前一〇時三〇分ころ、会社側団交委員長の篠原副社長が所用で退席した。

2  そこで、組合は、右退席は会社側が団交を不当に打切ろうとするものであると考え、右打切りを阻止するため、原告鈴木調布支部支部長、吉田調布支部書記長、小美濃調布支部副支部長らは、急遽、同日午後からの予定であった全面ストライキを調布支部においては午前一〇時四五分からに繰り上げて行なうことに決定し指令したうえ、調布工場、本社所属の組合員八〇〇名余りを招集した。そして、団交の席から抜け出した原告鈴木調布支部支部長が、その余の会社側団交委員の退出を阻止して団交の継続に圧力をかけるため、組合員約五〇名を会社の制止を無視して社員通用口から社屋内に導き入れて団交会場である講堂の前の二階廊下に座り込ませ、また、多数の組合員を同所に至る一階廊下、階段に座り込ませた。残余の組合員らは、本社中庭で集会を開いて、マイクを用いてシュプレヒコールを高唱したうえ、さらに社屋内に入り込むなどした。そこで、これらと退去を求める職制らとの間に激しい非難の応酬があって喧騒を極め、本社内の執務が困難な状況になった。

3  しかし、その後会社側が団交を午後四時まで行なうことに同意したので、組合員らは、午後一時ころまでに順次調布工場へ引揚げて行った。

一一  事件<28>(五月一九日、厚木工場)

(証拠略)並びに弁論の全趣旨によれば、五月一九日午後二時前ころから三時ころまでの間、山口執行委員の指揮のもとに、約四〇名の組合員によって、職制らの抗議警告及び制止を無視し、厚木工場本館、一号館及び二号館の窓ガラス、壁、壁面の支柱、鉄柱、窓枠、扉、階段、廊下の壁等に「有給休暇を増せ」、「住宅手当を出せ」、「要求貫徹」等と記載した大量のビラを貼付したこと、その結果、窓ガラスを透視困難な状態にし、また、鉄製部分のビラを剥がした跡は四月二三日に貼付した跡(事件<22>)とともに、赤錆を吹き出した状態となったことが認められる(右事実中、同日、組合員らが厚木工場の本館、一、二号館の窓ガラス、壁面の支柱等にビラを貼付したことは、当事者間に争いがない。)。

一二  事件<4>(五月二〇日、本社、調布工場)

(証拠・人証略)並びに弁論の全趣旨によれば、次の事実が認められる(ただし、次の事実中、組合が、五月二〇日午前七時三〇分ころから調布工場正門でピケッティングを行ない、本社前庭で集会を開いてシュプレヒコール等を行ない、その後調布工場で集会とジグザグデモを行なったこと、また、同日同工場のコイル工場屋上時計台に赤旗一本を設置したことは、当事者間に争いがない。)。この認定を左右するに足りる証拠はない。

1  五月二〇日午前七時三〇分ころから、原告鈴木調布支部支部長、吉田同支部書記長、小美濃同支部副支部長の指揮のもとに約一〇〇名の組合員が、先に入構していた職制、警備員らの抗議を無視して、調布工場正門の内側に五、六列のスクラムを組んで通路を塞ぎ入構阻止の態勢をとった。そして、そのころ出勤して来た職制、新組合員、非組合員ら数百人のうち、車一台が徐行して回りを職制らに囲まれながらようやく入構したくらいで、他の者はスクラムに立ち塞がれ、その間などから押し入ろうとしても押し返されるなどして入構を阻止された。

2  また、通常出勤時及び退社時に各三〇分間開門される裏門において、警備員が会社の指示により解錠し開門すると、小美濃調布支部副支部長が別の南京錠を持って来て封鎖した。会社側がこれを大型カッターで切断すると、原告鈴木調布支部支部長及び吉田同支部書記長の指揮により、正門にいた約五〇名の組合員が駆けつけて裏門にもスクラムを組んで入構阻止の態勢をとった。そのため、通常は出勤する従業員の自家用車約五〇台が裏門から入構するはずのところ、同日は出勤時間帯には裏門からは、車七、八台が徐行して回りを職制らに囲まれながらようやく入構し、その後に続いて徒歩の従業員約二〇名が入構したにすぎなかった。

3  しかし、組合は、午前八時一〇分ころには正門、裏門ともピケッティングを打ち切り、その後は入出構の妨害はなかった。調布工場の各職場における非組合員による操業は、通常の始業時刻より二〇分ないし四〇分位遅れて始まった。

4  ピケッティング打ち切り後、組合員約一〇〇名は、原告鈴木調布支部支部長及び吉田同支部書記長の指揮のもとに、本社前庭に赴き、同所で約三〇分間集会を行なって労働歌を高唱するなどした。その後調布工場に戻って全体集会を開いた後の午前九時二〇分ころから、会社側の制止、警告を顧みず、ワッショイ、ワッショイと喚声をあげつつ、午後九時三五分ころまでジグザグデモを行なった。

5  また、組合は、午前七時三〇分ころ、同工場のコイル工場屋上時計台に赤旗一本を設置した。その後、職制が、原告鈴木調布支部支部長及び吉田同支部書記長にその撤去を求めたが、これに応じなかった。

一三  事件<29>(五月二〇日、厚木工場)

(証拠略)並びに弁論の全趣旨によれば、五月二〇日午前九時ころから、厚木工場正門の内側に小原執行委員らの指揮のもとに約二〇〇名の組合員が六、七列のスクラムを組んでピケッティングを行ない、また、北門内側では山口執行委員の指揮のもとに約五〇名の組合員が五、六列のそれぞれスクラムを組んでピケッティングを行ない、同日正午ころまでそれらを続け、その間非組合員、外来者の入出構を阻止する態勢をとっていたこと、有坂正一ほか組合員五、六名が、同日午前八時四〇分ころ、同工場正門横の鉄製外柵に赤旗三本を設置し、午前一〇時ころ会社側が右赤旗を取り外したところ、すぐさま組合員らが再び同所に赤旗一一本を設置したこと、以上の事実が認められる(ただし、右事実中、組合が同日午前九時ころから同工場の正門、北門でピケッティングを行ない、同工場正門横の鉄製外柵に赤旗三本を設置し、会社側が右赤旗を取り外したところ、組合が再び同所に赤旗一一本を設置したことは、当事者間に争いがない。)。この認定を左右するに足りる証拠はない。

一四  事件<30>(五月二一日、厚木工場)

(証拠略)並びに弁論の全趣旨によれば、五月二一日午前九時ころ、小原執行委員の指揮のもとに一四、五名の組合員らが守衛の制止を無視して、厚木工場正門南側鉄製外柵に一三本の赤旗を針金で縛りつけて掲げ、これを会社側に取り払われないように見張りを置き、また、縦約一メートル、横約四メートルの「スト決行中」と赤ペンキで横書きした立看板を正門脇鉄柵外側に公道に向けて立てかけ設置したこと、同日午後二時四〇分ころから三時ころまでの間に、約一〇名の組合員が、職制の制止を振り切って、同工場本館正面玄関ホールのガラスに数百枚のビラを貼付して、ガラス扉はほとんど全面を覆うばかりにし、窓ガラスにはビラを貼り並べることにより、「要求貫徹」、「春斗勝利」、「斗争勝利」、「5ケタとろう」、「1万五千円貫徹」等の文字を作出したこと、以上の事実が認められる(ただし、右事実中、同日、組合が同工場正門両側に赤旗と立看板を設置し、本館正門玄関ホールのガラスにビラを貼付したことは、当事者間に争いがない。)。この認定を左右するに足りる証拠はない。

一五  事件<31>(五月二二日、厚木工場)

(証拠略)並びに弁論の全趣旨によれば、次の事実が認められる(ただし、次の事実中、五月二二日に組合が厚木工場の正門及び北門でピケッティングを行ない、赤旗及び立看板を設置したことは、当事者間に争いがない)。この認定を左右するに足りる証拠はない。

1  組合執行部は、五月二二日ピケッティングに先立ち、組合員に同日付けビラを配布して、全面ピケッティングを指示するとともに、その注意事項として、「(一)車及び人に対して器物等及び手足を使用しての暴力行為は絶対避けること、(二)万が一職制と口論になった場合は、腕を組み手を出さない姿勢とすること、(三)車については交通渋滞のないように秩序良く誘導すること、(四)車はピケットラインよりできるだけ遠ざけて停車させピケラインに突込まれないよう注意すること、(五)強行突破の可能性のある際は先頭棒で阻止し、それ以上強行であれば全員座り込みで闘うこと、(六)ポップ及び寮、組合に用事のある人、車は北門より通行させ確認すること、(七)外部者は平和説得により帰ってもらうこと」等を知らせた。

2  同日午後一時一〇分ころから午後五時ころまで、原告藤原執行委員長の指導のもとに、厚木工場の正門では数十名以上、北門でも数十名の組合員がピケッティングを行なった。

午後二時ころから三時五〇分ころまでは、正門から入った付近の植込みの前で構内で開かれた決起集会に参集した組合員約六〇〇名が同所に座り込み、同所を塞ぎながらピケッティングに加わり、その間は、右約六〇〇名以上の組合員が正門付近でピケッティングを行ない、非組合員等の出入構を阻止する態勢をとった。三時五〇分ころから、右約六〇〇名の組合員は、構内でジグザグデモを反復した。

3  また、同日小原執行委員ほか一名が同工場正門横南側の鉄製外柵に赤旗一三本と立看板五枚を縛りつけて掲げた。

一六  事件<5>(五月二三日・二四日、調布工場)

(証拠・人証略)並びに弁論の全趣旨によれば、次の事実を認めることができる〔ただし、次の事実中、組合員らが五月二三日夜調布工場食堂に泊り込んだこと、会社が同工場正門から組合事務所までの通路を示す白線の上にロープを張ったところ、組合員がこれを撤去したこと、組合が二四日午前六時ころから同工場正門、裏門、北側非常門、コイル工場建物南側入口、コイル工場建物東側非常階段(コイル非常門付近)(以下、北側非常門、コイル工場建物南側入口、コイル工場建物東側非常階段を併せて「コイル各門」ともいう。)でそれぞれピケッティングを行なったこと、会社が新組合員、非組合員らを集合させ、職制が入構させるよう組合側に要求したこと、組合がバリコン工場で集会を開いたこと及び会社側が製品を搬出しようとしたことは、いずれも当事者間に争いがない。〕。この認定を左右するに足りる証拠はない。

1  当日より先の二二日、原告鈴木調布支部支部長は、調布工場における調布支部の全体集会において、二四日から調布工場にピケを張って阻止する、座り込んでも入構を阻止せよなどと指示する演説をした。

また、二三日には組合調布支部は、二四日に行なうピケッティングについて、正門の門扉は車による突入を防ぐため一人通れるだけの隙間を残して閉め、スクラムをジグザグに組んでピケッティングを行ない、裏門は門扉の開閉をさせないように隊列を組み、他の各門には数名ずつの見張り要員を置くこと等を決定した。

2  会社は、二三日午後四時ころ、正門から組合事務所にいたる構内立入禁止の除外地域を白線を通してロープを張ったうえ、正門及び裏門の二か所に四枚に「組合事務所及び白線をもって表示した通路以外への立入りを禁ずる」などの立看板をした。

しかし、二四日午前四時ころ、組合員らが警備員の制止警告を無視して右ロープ張りとその支柱を撤去した。また、そのころ、有坂組合員らは、裏門内側に設置した右立看板をロッカー室裏側の外壁に裏返しにして立てかけ、目に触れないようにした。

3  また、吉田調布支部書記長、小川中央委員ら厚木工場からの応援者ら十数名の組合員が、翌朝のピケッティング態勢の確保及び会社側のロックアウト警戒のため、二三日午後一一時ころ調布工場食堂に侵入して泊り込み、二四日午前四時三〇分ころ構内を巡視する守衛に発見され退去を求められたが、これに応じなかった。

吉田調布支部書記長は、二四日午前五時ころ、施錠されていた同工場裏門の門扉の脚部を針金で緊縛して開閉を困難にした。

4  原告鈴木調布支部支部長、吉田同支部書記長は、二四日午前六時ころから集合して来た組合員らを正門に約五〇〇名、裏門に約五〇名、その他のコイル各門に各十数名に分けて配置し、同七時ころからピケッティングを行なわせた。

正門付近は、門の幅が約六・九メートル、門の内側に入った所から構内へは、西側を表面処理工場、東側を守衛室等のある建物によって画された幅員約八・五メートルの通路となっているところ、門扉を約五〇センチメートルの間隔を残して閉め、その外側に執行委員、中央委員を前面にして約五〇名の組合員が約四列の横隊のスクラムを組み、門の内側では、その余の組合員が男子を前方にして、通路の幅一杯に奥行約一五メートルにわたり二〇列近い横列のスクラムを組み、裏門においてもその幅一杯に約四列の同様のスクラムを組んだ。右のスクラムは、各列交互に列の一端に人一人が辛うじて通れるだけの幅を開け、入構しようとする者は、門扉の中央から入った後、横へ歩いて内側最前列の一方の端から同列と二列目の間へ入り、その間を横に歩いて他の一端から二列目の後へ入るというようにジグザグに組まれ、しかも列と列との間隔も、人が身体を触れないでは通れない程度の幅を残すのみであって、門の外側から見て、抵抗なく通過できるようには到底見えないものであった。

5  同日午前七時ころから職制、新組合員、非組合員らが出勤して来て、そのうちには、数名でスクラムの正門前で入構を要求するグループもいたが、その都度組合員らはスクラムを強く組んで立ち塞がり、「帰れ、帰れ。」と叫ぶなどして阻止した。午後(ママ)八時ころには、出勤して来た者が五〇〇名以上になったので、その会(ママ)社では、これらの者を約一〇〇メートル離れた野川対岸空地等に集めた。そして、そのうち吉田次長ら職制数名が午前八時過ぎころ、正門に至り、入構を強く要求して入ろうとしても、スクラムで立ち塞がれ、押し返されて阻止された。

さらに、同日午前九時ころ、上次課長ら職制を先頭に約五〇名が縦隊となって正門に至り、入構を強く要求した。しかし、組合側は、全くスクラムを解かず、最前面の組合員らが職制の前に立ちはだかり、押し止め、さらに横から縦隊の間へ割って入るなどしながら、口々に「このようになったのは会社が悪いからだ。」、「会社が我々の要求を認めるまでは断固闘う。」、「職制といっても同じ労働者の仲間ではないか。我々の要求を理解し共に闘おう。」、「ストに協力せよ。」、「帰れ、帰れ。」などと叫び、果ては「会社の犬」などと罵声を浴びせ、スクラムを緩める意思のないことを明らかにし、職制らも「ピケは違法だ。」、「ピケを解け。」、「就労する権利があるのだから入構させよ。」などと言って、押し合いとなった。

やがて、原告藤原執行委員長や原告鈴木調布支部支部長らが「スクラムの間に通路が空いているから通れる。」と言うので、職制十数名がスクラムの間へ入構しようと試みた。しかし、右職制らが列の間に入ると、組合員らは、口々に大声で闘争に協力するよう求め、胸の前に腕を組んで前面に立ち塞がったり、説得と称して話しかけながら身体を寄せるなどして、スクラムの各列の間は一層狭まり、列の両端が前へせり出し門扉中央部分を中心にして内弧を描く形となり、入構しようとする職制は、組合員と揉み合いこれを押し退けながらでなければ進めない状態となり、押されたり、体当たり、膝で蹴られる等の阻止行動にあった。結局、職制四、五名が約三〇分かけて入構したが、その余の職制らは入構をあきらめ門外へ引返した。

6  また、同日午前九時三〇分ころ、正門前で、河本工場管理部次長が、以前ミツミ会の所有で当時カメラ同好会が管理していた八ミリカメラを使用してピケッティングの状況を撮影していたところ、小原執行委員が右カメラは組合の所有になっていると主張してその引渡を要求し、吉田治夫係長が辛うじてフィルムを抜き取ったものの、カメラは小原の手に奪い取られてしまい、このような事件もあって、ますます緊迫した空気となった。そのため、会社側は非組合員を入構させることは不測の生(ママ)じさせる危険があると判断して、同日午前一〇時ころ引き揚げ、帰宅させた。

7  右ピケッティングの間、原告藤原執行委員長、原告鈴木調布支部支部長及び吉田同支部書記長は、表面処理工場の屋上から状況を見ながら、スピーカーを用いてピケッティングを指揮し、また正門のあたりにあって職制らと押問答したりなどしていた。組合は、同日午前一一時ころからピケッティングの人員を減らし、バリコン工場の三階で集会を行なった。

8  同日午後五時ころから、見張りの手薄となった正門から約一〇名の職制及び非組合員が入構し、製品を営業者(ママ)六台に乗せて搬出しようとしたが、知らせを受けて駆けつけた原告鈴木調布支部支部長、吉田同支部書記長ら十数名の組合員が車の前面に立ちはだかるなどして、その進行を阻止し、激論を交わしたすえ、職制側は搬出をあきらめ、積荷を降ろした。

9  原告鈴木調布支部支部長、吉田同支部書記長を始めとする数十名の組合員は、五月二四日夜、バリコン工場三階に侵入し、新品の包装用段ボールを蒲団代わりに使用して、泊り込んだ。

10  五月二四日は調布工場では全く生産のための操業ができなかった。

一七  事件<32>(五月二四日、厚木工場)

(証拠略)並びに弁論の全趣旨によれば、次の事実が認められる(ただし、次の事実中、五月二四日午前六時三〇分から午前一〇時三〇分まで、厚木工場の正門で最も多いときで約一五〇名の組合員が、北門でも最も多いときで約一〇〇名の組合員がそれぞれジグザグのスクラムを組んでピケッティングを行なったこと、鈴木部長が乗用車で正門から入構しようとした際、組合員が動かした門扉と右車が接触したこと、送迎用バスのブレーキ用圧搾空気が抜けていたこと、組合員が同日夜同工場食堂に泊り込んだことは、当事者間に争いがない。)。この認定を左右するに足る証拠はない。

1  当日より先の五月二二日、原告藤原執行委員長は、厚木工場において、ストライキ中の組合員に対し、同月二四日からの闘争について「犬の子一匹通すな。それから得意先も絶対通すな。」などと指示演説した。五月二四日午前六時ころから、山崎副執行委員長らの指導のもとに、同工場の正門で約一五〇名の組合員が、北門で約五〇名の組合員がそれぞれ各門の幅一杯にジグザグのスクラムを組んでピケッティングを行なった。

2  五月二四日午前六時ころ、厚木工場の正門から構内に入ろうとした鈴木開発企画部長の乗用車の前に組合員が立ち塞がってその進行を妨げ、同部長がなおも入構するため微速前進し、これを阻止しようとした組合員が開放されていたスライド式の門扉を閉めようとしたが間に合わず、門扉のレールの上に差しかかっていた右乗用車の脇に門扉をぶつけ、ドア把手の下に幅約五ミリメートル、長さ約一〇センチメートルの凹み傷をつけた。もっとも、同部長は結局入構した。

同日午前七時五〇分ころ、伊原課長が乗用車で正門から入構しようとしたが、組合員がその前に立ち塞がり、その進行を妨げ、同課長がなおも車を微速前進させ辛うじて入構し得たが、その際、組合員である小峯双美が右乗用車に接触し、両下腿打撲傷の軽傷を負ったとして、組合が後刻伊原課長の責任を追及するに至った。

3  同日午前八時三〇分ころ、会社の送迎用バスが北門前に到着し、下車した数十名の職制、非組合員は、北門でピケッティングをしていた組合員から正門へ廻るようにと言われて正門前へ行き入構させるよう要求したが、組合員は、その行手を阻み、スクラムを解かず、口々にストライキへの協力を求めるなどして職制らと激論を交わし、この間十数名の職制がスクラムの間を通って辛うじて入構し、また数名が横の道路沿いの高さ一メートルのフェンスを乗り越え入構した。しかし、その余の者は、午前九時過ぎころ、入構をあきらめ引き揚げた。

その後も、組合は、正門等に見張員を配置し、他の組合員を構内に待機させていた。

4  同日午前七時三〇分ころから午前九時三〇分ころまでの間、同工場内食堂の組合側の使用について、使用時間を制限しようとする鈴木工場長、鈴木開発企画部長とこれを拒否する組合員らとの間で口論があった。会社側はいったん組合員らを食堂から退出させたが、その後再び組合員らがなだれ込んでその使用を始めた。

5  組合は、いずれも会社側の制止、警告を無視して、山崎副委員長の率先指導のもとに、同日午前九時三〇分ころ、正門横の鉄製外柵に赤旗五本を掲げ、午後一時過ぎころ、工場構内にある高さ約二五メートルのネオン塔の上、次いで本館屋上にそれぞれ侵入して赤旗各一本を掲げた。

6  また、同日、送迎用バスのブレーキ用圧搾空気を抜き取る等の走行妨害工作を加えた形跡が見つかった。会社は、これを組合の意図的な破壊工作であるとして非難したが、その犯人は明らかにならなかった(これを組合員の仕業と疑うことにはもっともな理由があるが、少なくとも原告らの責に帰すべきものと認めるべき証拠はない。)。

7  同日夜、原告藤原執行委員長ら約一〇名の組合員が同工場食堂に侵入して泊り込んだ。

一八  事件<6>(五月二五日、調布工場)

(証拠・人証略)並びに弁論の全趣旨によれば、次の事実が認められる(ただし、次の事実中、五月二五日午前七時から、調布工場の正門で約七〇〇名の組合員がジグザグのスクラムを組んで、裏門でも約二〇〇名の組合員がスクラムを組んでそれぞれピケッティングを行ない、コイル各門でもピケッティングをしたこと、組合員が同日夜、同工場食堂に泊り込んだことは、当事者間に争いがない。)。この認定を左右するに足りる証拠はない。

1  組合は、五月二五日も調布工場においてピケッティングの態勢をとることとし、午前六時三〇分ころから集合し始めた組合員を同工場正門、裏門、コイル各門に配置した。午前七時ころには正門で約五〇〇名の組合員が、裏門で約五〇名の組合員がそれぞれジグザグにスクラムを組み、その他のコイル各門には各数十名の見張りを配置した。その後、厚木工場からの応援者が加わり、ピケッティングの人員も最も多かった午前八時ころは、正門では約八〇〇名、裏門では約二〇〇名に達した。正門では右多数の組合員が前日同様に正門の門扉の外側に約六〇名の組合員がスクラムを組み、その内側には二〇ないし三〇列のジグザグにスクラムを組み、正門の門扉を約五〇センチメートルの間隔を残して閉め、二〇列以上のスクラムを組んでピケッティングの態勢をとった。

2  同日午前六時五〇分ころから、同日の総指揮をとる原告鈴木調布支部支部長のほか吉田同支部書記長が表面処理工場の屋上等からピケッティングの指揮をとり、午前七時三〇分ころから約四〇名の組合員が構内でジグザグデモを行なった。その後、原告鈴木は、正門前のスクラムのピケッティングの前面に立ち、率先して入構阻止にあたった。

3  同日午前七時五〇分ころ、職制数十名が、スピーカー車と共に正門前に来て、ピケを解き入構させるように放送し、写真撮影を始め、これを非難する組合員との間で喧騒な状況となった。午前八時一〇分ころ、十数名の職制と数名の新組合員が入構を要求してスクラムの中に押し入り入構しようとし、スクラムを固めてこれに立ち向かう組合員との間で揉み合いとなり、水野副工場長だけは、原告鈴木調布支部長の指示で組合員が先導してスクラムを通過し、そのほかに三、四名の職制が約三〇分を費やして辛うじて入構できたが、その余の者はスクラムの中へ入っても揉まれて押し出されるような状況で結局入構を諦めた。なお、水野副工場長の右通過は、ピケッティングの中を通れることを示すための組合の見せかけとみられる。

4  会社側は、出勤して来た約五〇〇名の新組合員、非組合員を野川対岸空地に集合させ、午前八時三〇分ころ、斎藤次長ら職制を先頭に非組合員ら約一五〇名が二列縦隊で正門前スクラムの前に到り、そこでスクラムを指揮していた吉田調布支部書記長らに入構を要求して押し入ろうとしたが、立ち塞がれるなどして阻止され、斎藤次長が三〇分以上を費やして辛うじて入構できただけであった。さらに午前九時三〇分ころ、約二〇名の職制が正門前で入構を要求したが、組合側はこれに対しても立ち塞がるなどして阻止した。結局、会社側は、以後の入構を諦めて引揚げた。

5  午後零時一〇分ころから約一〇分間に、約三五〇名の組合員が構内でシュプレヒコールを行なった。組合は午後三時ころからはピケッティングの人員を減少させたが、同五時以後も終夜正門に見張り要員を配置した。

6  同日夜、十数名の組合員がバリコン工場三階に侵入し、段ボールを蒲団代わりに使用して泊り込んだ。

7  五月二五日は調布工場は全く操業ができなかった。

一九  事件<33>(五月二五日、厚木工場)

(証拠略)並びに弁論の全趣旨によれば、次の事実が認められる(ただし、次の事実中、五月二五日午前六時から午前九時三〇分まで、厚木工場の正門、北門でそれぞれ最も多いときで約二〇〇名の組合員がジグザグにスクラムを組んでピケッティングを行ない、西門、南門でそれぞれ五名の組合員が見張りをし、正門横に赤旗を立てたこと、組合員が同日夜、同工場食堂に泊り込んだことは、当事者間に争いがない。)。この認定を左右するに足りる証拠はない。

1  組合は、五月二五日午前五時三〇分ころから厚木工場においてピケッティングを行ない始め、午前八時ころには正門で約二〇〇名、北門で約一〇〇名の組合員がジグザグにスクラムを組んでピケッティングを行なった。原告藤原執行委員長は、正門附近に置かれた指揮台の上から、右スクラムを指揮し、山崎副執行委員長、尾崎執行委員、福島書記長、小川中央委員らもそれぞれ指揮した。正門及び北門の各門扉を約五〇センチメートルの間隔を残して閉めた。正門横の鉄製外柵に赤旗一三本、立看板五枚を掲げた。

2  午前八時ころ、永田係長が乗用車を運転して入構するため正門前に来たが、小川中央委員を含む組合員らがその周辺を包囲して、ドア、フロントガラス等を叩いて、「帰れ。」と叫ぶなどして進行を阻止したため、入構することができなかった。

3  午前八時一〇分ころ、北門前に会社の送迎用バスが到着し、職制を先頭に約一〇〇名の非組合員が入構させるよう要求したが、正門にいた組合員の一部も駆けつけ入構を阻止して激しい口論となり、川村係長のみがスクラムの間を通過して入構し、他に二、三名の職制が塀を乗り越えて入構しただけで、他の職制、非組合員は入構を諦め引き揚げた。午後三時ころ外来者があったが、組合からストライキ中である旨を告げられて帰った。

4  午後三時三〇分ころから、約七〇〇名の組合員が構内で集会を行ない、原告藤原執行委員長が演説をしたほか、調布工場への応援から帰って来た有坂組合員が壇上に立って調布工場の状況を報告をし、あわせてピケッティングの態勢について教示し、その後構内でジグザグデモを行なった。

5  以後も各門に見張り要員を配置し、同夜も十数名の組合員が本館内食堂に侵入して泊り込んだ。

二〇  事件<7>(五月二六日、調布工場)

前記第三の六9の事実(給料支払事務に関する協定の成立等)、(証拠・人証略)並びに弁論の全趣旨によれば、次の事実が認められる(ただし、次の事実中、五月二六日午前八時ころから午後三時ころまで約五五〇名ないし約七〇〇名の組合員が、その後の午後四時ころから約五〇〇名の組合員がそれぞれ調布工場の正門でジグザグスクラムを組んでピケッティングを行なったこと、同日夕方、会社の保安要員が組合のピケッティングのところに来て入構を求めたこと、組合員が同夜バリコン工場三階に泊り込んだことは、いずれも当事者間に争いがない。)。この認定を左右するに足りる証拠はない。

1  五月二六日は給料日であったため、組合は、当初同日にストライキ等を行なうことを予定していなかったが、急遽同日も調布工場において全面ストライキ及びピケッティングを行なうことを決定した。

そして、午前八時ころ、原告藤原執行委員長、原告鈴木調布支部支部長らの指揮のもとに、調布工場の正門で約五〇〇名ないし五五〇名の組合員が、裏門で約一〇〇名の組合員がそれぞれ前日同様のジグザグにスクラムを組んでピケッティングを行なった。正門の門扉は約五〇センチメートルの間隔を残して閉め、その脚部に太い鎖でそれ以上開かないようにして鎖には錠をかけていた。その他のコイル各門に各十数名の見張要員を配置した。

2  職制、新組合員、非組合員ら約六〇〇名が野川対岸空地に集合した。そのうち川野課長ら数名の職制を含む約一〇〇名が午前八時ころ正門前に来て、入構を求めたが、組合員らがその前に立ち塞がり、取り囲み、あるいは押し返すなどしてこれを阻止した。

3  午前九時二〇分ころから正午ころまで、厚木工場で指名ストの対象となった組合員約三〇〇名がスクラムピケッティングの応援に加わった。

4  午後二時ころ、給料支払事務に関する協定が成立した。そこで、午後三時三〇分ころから、非組合員らが順次印章を取りに入構したが、その際も、一人ごとに組合員がついて、私物以外の物を搬出入したり、印章を取りに行くこと以外の行為をしないよう監視した。

5  そして、本社で給与支払のなされている間の午後四時四〇分ころ、右協定成立の動きを聞知していなかった塚田次長ら職制約四〇名が四台の営業車で正門前に来て製品搬出のため入構しようとした。

しかし、組合では門扉を閉めて数十名の組合員が門扉の内外にスクラムを組み、その外側では、吉田調布支部書記長外数名が右営業車の下に下半身を突っ込むなどして車の前に座り込んで入構を阻止した。原告鈴木調布支部支部長は、表面処理工場二階屋上から、マイクで、会社が前記協定に違反した旨抗議し、組合員に工場に戻ってスクラムに加わるよう指令するなど、右阻止行動を指揮した。原告鈴木の指令で急遽駆けつけた多数の組合員らが右スクラム、座り込みに加わり、その員数は約二〇〇名ないし五〇〇名に達した。結局、右営業車は入構できなかった。

6  午後六時ころ、鈴木課長ら職制五名が正門前に来て、保安要員の交代のために入構しようとしたが、なおピケッティングを続けていた組合側は、我々が警備するから保安要員は要らないなどと言って容易に入構を認めず、この間、原告鈴木調布支部支部長の頑強な拒否もあって、四時間近くも押問答した挙句、保安業務のみに限り、かつ、コイル、バリコン両工場の一階廊下の通行には組合員の付添をつけることを承諾する念書を提出してようやく二名の入構を認められた。

7  組合員らは、同日夜もバリコン工場三階に侵入して泊り込み、約二〇名ずつ交代で各門の見張りを行なった。

8  五月二六日も調布工場では生産のための操業は全くできなかった。

二一  事件<34>(五月二六日、厚木工場)

1  (証拠略)並びに弁論の全趣旨によれば、組合が組合員に配布した二六日付ストライキ指令のビラにおいて、前記事件32につき、(一)「二四日朝伊原課長の車が時速三〇ないし四〇キロメートルのスピードで強引にピケを突破し、女子二名をはねて、手足に傷を負わせ、事故処理もせずに走り去った。」、(二)「会社側が同日食堂にいた組合員を排除しようとし、その際、鈴木企画部長は、女子三人に殴る、突き飛ばす等の暴力行為を行なった。」との趣旨の記載をしたことが認められる。

そして、右(一)の点については、後藤双美(旧姓小峯)が(証拠略)において、二四日に厚木工場の正門のピケに組合員として加わった際に突っ込んできた伊原課長の車に接触して怪我をしたと述べており、(証拠略)によれば、同人が同日打撲傷を受けた旨の診断を得ていることが認められるから、伊原車が組合員に接触したことはあるものと推認される。しかし、組合員が右の伊原車の進行を阻止した際の出来事であり、また右のビラの記載は車の速度の点でも前記一七(事件<32>)の認定事実に反するものと認められ、伊原課長が故意に傷害を負わせたものとみる根拠もないのであって、右ビラ中の右の点に関する記載は、中傷ということができる。

また、右(二)の点については、(証拠略)中には、二四日、女子組合員が食堂から退去を求められた際、鈴木部長が組合員合田憲子の腕をわしづかみにし、頭を拳骨で一回殴ったとの陳述記載がある。しかし、これは、(証拠略)に対比して直ちに採用しがたく、他に鈴木部長が暴力行為に出たことを確認するに足りる証拠はないから、前記ビラ中この点に関する記載も、中傷というほかはない。

2  (証拠略)並びに弁論の全趣旨によれば、約五〇名の組合員が、五月二六日夜、組合員が厚木工場食堂に侵入して泊り込んだことが認められる(ただし、五月二六日夜、組合員が厚木工場食堂に泊り込んだことは、当事者間に争いがない。)。

二二  事件<8>(五月二七日、調布工場)

(証拠・人証略)の結果、(証拠略)並びに弁論の全趣旨によれば、次の事実が認められる(ただし、次の事実中、五月二七日に調布工場の正門で約三〇〇名の組合員が、裏門で約一〇〇名の組合員がスクラムを組んでピケッティングを行なったこと、組合員が同日夜バリコン工場三階に泊り込んだことは、いずれも当事者間に争いがない。)。この認定を左右するに足りる証拠はない。

1  組合は、五月二七日午前七時ころから、原告藤原執行委員長、原告鈴木調布支部支部長及び吉田同支部書記長の指導のもとに、調布工場の正門で約二〇〇名ないし三〇〇名の組合員が、裏門で約一〇〇名の組合員がそれぞれジグザグにスクラムを組んでピケッティングを行ない、他の各門に各数十名の見張りのピケッティングを行なった。正門の門扉は、ほぼ前日と同様の隙間を残して閉めていた。

2  会社が同日から関連会社工場等において社外生産を始めたため、調布工場近くの野川対岸空地に集結して来た職制、非組合員の数は前日までよりは減少したが、なお、二〇〇名近くに上った。そして午前八時二〇分ころ、川野課長ら職制数名を先頭に二〇〇名近くが正門前に来て、入構させるよう再三要求したが、組合員に立ち塞がれるなどして阻止された。川野課長ら職制数名はスクラムへ割って入ろうとしたが、押し返されて、突き飛ばされて入構を断念した。僅かに、前日に引き続き給料受領のため印章を取りに行く従業員若干名が入構したに過ぎなかった。

3  組合は、午後三時ころ以降は人数を減らしたが、なお、ピケッティングを続けた。

4  午後八時ころ、河野部長以下職制四名が保安業務の交代要員として入構しようとしたが、原告藤原執行委員長が率先してこれを阻止した。再三の押問答のすえ、翌二八日午前零時ころに二名だけ入構することができた。

5  同日夜も数十名の組合員がバリコン工場三階に侵入して泊り込み、夜間も阻止態勢を維持するため、交代で各門の見張りにあたった。

6  二七日も、同工場では操業が全くできなかった。

二三  事件<35>(五月二七日、厚木工場)

(証拠略)並びに弁論の全趣旨によれば、次の事実が認められる(ただし、次の事実中、五月二七日午前六時ころから午前九時四〇分ころまで厚木工場の正門で、午前六時三〇分ころから午前一〇時ころまで北門で、それぞれ最も多いときで約二〇〇名の組合員がジグザグにスクラムを組んでピケッティングを行ない、その他の各門でもそれぞれ約五名の組合員が見張りのピケッティングを行なったこと、組合が正門横に赤旗と立看板を設置したこと、組合員が同日夜同工場内に泊り込んだことは、いずれも当事者間に争いがない。)。この認定を左右するに足りる証拠はない。

1  厚木工場において、組合員有坂が、同日午前六時ころから約三〇分間、集まって来た組合員らに対し、調布工場で行なわれたスクラムピケッティングの方法を説明し、午前七時ころから、右有坂、小川中央委員らが中心となって正門、北門でそれぞれ約二〇〇名の組合員がジグザグにスクラムを組んでピケッティングを行なった。右有坂と善波忠義中央委員は、午前七時三〇分ころ、会社が閉塞されないように前夜から開放したまま鎖錠をもって固定していた正門の門扉を、右鎖錠をカッターで切断したうえで、約五〇センチメートルの隙間を残して閉めた。同じく前夜から会社が開放していた北門も、自動車一台が通れるだけの間隔を残して閉めて、その内側にスクラムを組んだ。その他の各門でもそれぞれ約五名の組合員が見張りのピケッティングを行なった。

2  午前八時ころ、会社の送迎用バスが北門前に到着し、約五〇名の職制、非組合員が北門から入構させるよう要求した。しかし、正門から移動した組合員も北門のピケッティングに加わって、約二〇〇名がスクラムを組んで入構を阻止し、川村係長ら職制三名がスクラムの間を辛うじて通過したが、その他の押し入ろうとした職制らはスクラムからはじき出された。その他の職制数名が塀を乗り越えて入構しただけで、非組合員は入構できず約一時間後に引き揚げた。

3  また、組合は、同日早朝から、正門横の鉄製外柵に赤旗七本と立看板三枚を、北門門扉に赤旗三本をそれぞれ縛りつけて立てた。

4  同日夜、組合員約七〇名が本館内食堂に侵入して泊り込んだ。

二四  事件<9>(五月二八日、調布工場)

(証拠・人証略)並びに弁論の全趣旨によれば、次の事実が認められる(ただし、五月二八日午前八時から調布工場の正門で約三〇〇名の組合員がジグザグのスクラムを組んでピケッティングを、裏門では約一一〇名の組合員がスクラムを組んでピケッティングを、その他の各門ではそれぞれ一〇名ないし三〇名位の組合員が見張りのピケッティングを行なったこと、職制が同日午後四時ころと四時三〇分ころ車と共に正門から入構しようとしたこと及び組合員が同日夜同工場内に泊り込んだことは、いずれも当事者間に争いがない。)。この認定を左右するに足りる証拠はない。

1  組合は、五月二八日、調布工場において、原告鈴木調布支部支部長、吉田同支部書記長の指揮のもとに、午前八時ころからピケッティングを始め、正門で約二〇〇名ないし三〇〇名位の組合員が、裏門で約二〇〇名の組合員が前日までと同様のジグザグのスクラムを組み、正門の扉は、午前午後にわたり、約五〇センチメートルの間隔だけを残して閉めた。その他の各門ではそれぞれ一〇名ないし三〇名位の組合員が見張りのピケッティングを行なった。

2  午前八時一〇分ころ、斎藤次長ら職制数名を含む非組合員ら約四〇名が正門前に来て、就労のため入構を要求した。しかし、組合はスクラムを緊密に組んで強化して拒んだうえ、吉田調布支部書記長、小原執行委員ら及びその指揮する組合員らがスクラム前面で職制らの前に立ち塞がり、押し返すなどして阻止した。その間、原告鈴木調布支部支部長は、表面処理工場屋上からスピーカーで、「通路は空いているから、自由に通れる。」などと言いながら、実際には、緊密にスクラムを組んで寄せつけない態勢を維持していた。やがて、原告鈴木は、実際に通れることを示すため職制を先導してスクラムに分け入り、斎藤次長外一名は、右先導に従って、揉まれながらも辛うじて通過し入構した。しかし、その余の職制は、スクラムの途中から押し返され、あるいはスクラムの前面で阻まれて、入構することができず、九時三〇分ころ引き揚げた。

3  午後四時ころ、塚田部長代理ら職制約三〇名が営業車二台と共に正門前に来て、ポリバリコン、コイル、モーター、抵抗器等の製品や生産器具を搬出するため入構させるよう要求した。しかし、吉田調布支部書記長ら約二〇〇名の組合員はスクラムを解かず、また、原告鈴木同支部支部長は表面処理工場屋上からマイクで寮等に居る組合員の集合を指令してスクラムに(ママ)強化するなど指揮した。結局、職制らは入構することができなかった。

4  午後四時三〇分ころ、塚田部長代理ら職制十数名が再び営業車二台と共に正門前に来て、右同様に製品や生産器具を搬出するため入構させるよう要求した。しかし、原告鈴木調布支部支部長及び吉田同支部書記長は門扉内側のスクラムを強化しただけでなく、約五〇名の組合員とともに門扉の外に出て車の前面に立ちはだかって塚田部長代理を押し返し入構を阻止した。

5  午後五時三〇分ころ、宮崎課長ら職制が営業車二台と共に正門前に来て、前同様に搬出するため入構させるよう要求した。しかし、原告鈴木調布支部支部長及び吉田同支部書記長が車輌の前面に立ちはだかって押し戻そうとしたり、そのタイヤを蹴ったり、窓を叩いたりして入構を阻止した。

6  青柳課長ら職制数名が午後二時ころ及び午後四時ころ、それぞれ正門前に来て、原告鈴木調布支部支部長及び吉田同支部書記長に対し、取引先への納品遅滞により生産ラインが既に止まっており、また巨額のペナルティをとられる事態になっていることを説明して、セラミックフイルター及び抵抗器の製品を搬出するために入構を要求したが、入構することができなかった。さらに、午後七時ころ、右同様入構を要求し、押問答のすえ、ようやく午後一一時過ぎころ、原告鈴木調布支部支部長及び吉田同支部書記長らが「社長に、製品搬出を妨害していない旨を伝えるなら。」という条件で青柳課長ほか一名だけの入構及び製品搬出を認めたが、その製品搬出まで組合員らが身辺に付きまといながら監視した。

7  同日夜も、約一〇〇名の組合員がバリコン工場三階に侵入して泊り込み、新品の段ボールを使用した。

8  この日も調布工場の操業は全くできなかった。

二五  事件<36>(五月二八日、厚木工場)

(証拠略)並びに弁論の全趣旨によれば、次の事実が認められる(ただし、次の事実中、五月二八日、午前六時から午前九時三〇分まで厚木工場の正門、北門でそれぞれ最も多いときで約二〇〇名の組合員がジグザグのスクラムを組んでピケッティングを行なったこと、組合員が赤旗、立看板を立てたこと、非組合員とともに職制が北門前に来て入構させるよう要求したこと及び組合員が同日夜同工場食堂に泊り込んだことは、いずれも当事者間に争いがない。)。この認定を左右するに足りる証拠はない。

1  組合は、五月二八日、厚木工場において、午前六時ころから小川中央委員らの指導のもとにピケッティングを始め、午前八時ころには正門、北門でそれぞれ約二〇〇名の組合員がジグザグにスクラムを組んでピケッティングを行なった。

2  午前八時一〇分ころ、会社の送迎用バスが北門前に到着し、約一〇〇名の職制、非組合員が北門から入構しようとした。しかし、小川中央委員の指揮のもとに、正門から廻った者を含む約二〇〇名の組合員が何列にもわたって堅固にスクラムを組み、職制と非難を応酬し合い、数名の職制がスクラムの中へ割って入ろうとしたが、押し戻され、結局入構を諦めて午前九時二〇分ころ引き揚げ、同日は終日入構できなかった。

3  組合は、前日同様の数の赤旗、立看板を立て、夜は、組合員約二〇名が食堂に入って泊り込み、また、駐車中の送迎用バスに入って泊まった者もあった。

4  この日も、生産のための操業は全く停止の状態であった。

二六  事件<10>(五月二九日、調布工場)

(証拠・人証略)並びに弁論の全趣旨によれば、次の事実が認められる(ただし、次の事実中、五月二九日午前八時ころから調布工場の正門で約一五〇名の組合員が、裏門で約五〇名の組合員がそれぞれピケッティングを行ない、その他の各門で五名ないし一〇名の組合員が見張りのピケッティングを行なったこと、一一時ころ職制約二〇名が入構させるよう要求したこと及び組合員が同日夜バリコン工場三階に泊り込んだことは、いずれも当事者間に争いがない。)。この認定を左右するに足りる証拠はない。

1  組合は、五月二九日午前六時ころから、原告藤原執行委員長、原告鈴木調布支部支部長及び吉田同支部書記長の指揮のもとに調布工場においてピケッティングを始め、同工場の正門に約八〇名ないし一五〇名の組合員が、裏門で約二〇名ないし五〇名の組合員がそれぞれスクラムを組んでピケッティングを行ない、その他のコイル各門には五ないし一〇名の組合員が見張りのピケッティングを行なった。

2  午前八時ころ、長井課長代理が正門前に来て、インド・マーフィー社向け金型、測定器の搬出のために入構を要求し、一時間余の口論のすえ、組合側は、長井課長代理に限って入構を認め、小畑支部執行委員の監視のもとで搬出させた。

3  その後の午前一〇時ころ、渡部経理部長、三枝経理課長及び諸井経理係長らが正門前に来て、月末の棚卸し資産の試査等のため入構させるよう要求した。また、そのころ職制約二〇名が正門前に来て就労のため入構させるよう要求した。しかし、その都度、原告鈴木調布支部支部長が表面処理工場屋上からマイクで「予定の行動を開始せよ。」などと言って号令し、正門門扉を約三〇センチメートル開けただけで閉塞し、その内側で組合員がスクラムを緊密に組んで強化し、入構を阻止し続け、スクラムの間から入構しようとするのを押し返すなどして阻止したため、右職制らは入構を断念して午前一〇時四〇分ころ引き上げた。

4  午前一一時ころ、職制ら約二〇名が営業車二、三台と共に正門前に来て、製品の搬出のため入構させるよう要求した。しかし、原告鈴木調布支部支部長が表面処理工場屋上からマイクで「予定の行動を開始せよ。」などと言って号令し、組合員がスクラムを緊密に組んで強化し、入構を阻止し、午前一一時四〇分ころ引き上げた。

5  佐藤係長も、午後九時ころから保安要員として入構させるよう再三要求し、それを阻止されていたが、午前(ママ)一〇時三〇分ころようやく入構することができた。

そして、佐藤係長が巡回中の午後一一時ころ、原告鈴木調布支部支部長、吉田同支部書記長ら組合員が資材部応接室に侵入して組合発行ビラ作成のため同室を使用しているところを発見したので、同人らに退去を求めた。しかし、原告鈴木、吉田は、これに応ぜず、かえって実力をもって佐藤係長を同室から押し出した。さらにその後、原告鈴木は、山口執行委員と共に佐藤係長の腕を掴んで廊下から屋外まで引きずり出した。

6  同日夜、約五〇名の組合員がバリコン工場三階に侵入して泊り込んだ。

7  五月二九日も調布工場は全く操業できなかった。

二七  事件<11>(五月三〇日、調布工場)

(証拠・人証略)並びに弁論の全趣旨によれば、次の事実が認められる(ただし、次の事実中、五月三〇日、調布工場の正門で約八〇名の組合員がジグザグにスクラムを組んでピケッティングを行ない、裏門で約二〇名の組合員が、その他の各門で五名ないし一〇名の組合員がそれぞれ見張りのピケッティングを行なったこと、二回にわたり、職制約二〇名が正門前に来たこと及び組合員が夜バリコン工場三階に泊り込んだことは、いずれも当事者間に争いがない。)。この認定を左右するに足りる証拠はない。

1  組合は、原告鈴木調布支部支部長、吉田同支部書記長の指揮のもとに、五月三〇日午前七時ころから、調布工場正門で約五〇名ないし八〇名の組合員が、裏門で約二〇名の組合員がスクラムを組んでピケッティングを行なった。正門の扉は、約五〇センチメートルの間隔だけを残して閉めた。その他の各門で五名ないし一〇名の組合員がそれぞれ見張りのピケッティングを行なった。

2  午前九時三〇分ころ及び午前一一時三〇分ころの二回にわたり、特殊開発部第二グループリーダー川原和夫が正門前に来て、月末の支払に必要な検収伝票を搬出するために入構を要求した。また、吉井部長ら職制約二〇名が午前一〇時ころ及び午前一一時三〇分ころそれぞれ正門前に来て、製品を搬出するために入構を要求した。しかし、その都度、組合員らは、スクラムを強化したうえ、取り囲み、押し返すなどしてその入構を拒んだ。

3  午後四時ころ、青柳課長らが正門前に来て、製品等を搬出するために入構を要求した。同課長は、いったんスクラムの間を辛うじて通過したものの、直ちにスクラムの中に押し戻され、揉まれて構外へ出されて、目的を果たせなかった。その余の職制はそれぞれ一時間余にわたって入構を求めて押問答のすえ、引き揚げた。

4  同日夜、約六〇名の組合員がバリコン工場三階に侵入し、段ボールを布団代わりに使って泊り込んだ。

5  五月三〇日も調布工場は操業が全くできなかった。

二八  事件<37>(五月三〇日、厚木工場)

(証拠略)及び弁論の全趣旨によれば、尾崎、伊東両執行委員を含む十数名の組合員が五月三〇日夜厚木工場食堂に侵入して泊り込み、構内に駐車中の通勤バスにも侵入して泊り込んだことが認められる(ただし、右事実中、十数名の組合員が五月三〇日夜厚木工場食堂に泊り込んだことは、当事者間に争いがない。)。

二九  事件<12>(五月三一日、調布工場)

前記第三の六16(二)の事実(約束)、(証拠・人証略)並びに弁論の全趣旨によれば、次の事実が認められる(ただし、次の事実中、五月三一日、調布工場の正門で約三〇〇名の組合員がジグザグにスクラムを組んでピケッティングを行ない、裏門で約六〇名の組合員がスクラムを組んでピケッティングを行ない、コイル各門でも一〇名ないし二〇名の組合員が見張りのピケッティングを行なったこと、午後五時ころ高橋副社長及び約二〇名の職制らが正門前に来たこと及び組合員が夜バリコン工場三階に泊り込んだことは、いずれも当事者間に争いがない。)。この認定を左右するに足りる証拠はない。

1  組合は、五月三一日、調布工場において、原告鈴木調布支部支部長、吉田同支部書記長の指揮のもとに、午前七時ころから正門で約一二〇名ないし三〇〇名の組合員がジグザグにスクラムを組んでピケッティングを行ない、裏門でも約三〇名ないし六〇名の組合員がスクラムを組んでピケッティングを行ない、その他の各門でも一〇名ないし二〇名の組合員が見張りのピケッティングを行なった。原告鈴木調布支部支部長は、表面処理工場二階屋上から、マイクで、右組合員に対し、出勤して来る職制、新組合員、非組合員の入構を阻止するピケッティング態勢を維持するよう指示した。

2  前記のように団交が行なわれている間は入構を妨害しないという約束のもとに、午後五時ころ団交が行なわれた。そこで、そのころ、高橋副社長及び約二〇名の職制らが営業車と共に正門前に来て、製品の搬出のために入構を要求した。しかし、吉田調布支部書記長が指揮する組合員のスクラムは維持され、正門の門扉も約四〇センチメートルの間隔を残して閉じられたままで、直ちに入構することはできなかった。そのうち、右団交が短時間で決裂すると、その交渉委員の原告鈴木調布支部支部長が直ちに電話で「製品を止めろ。」と調布工場で指揮をとる吉田同支部書記長に指令し、吉田同支部書記長が約七〇名の組合員を指揮してスクラムを強化し、右職制らの入構を引き続き阻止した。この日も結局、会社側は入構できなかった。

3  同日夜もバリコン工場三階に最少の時でも約三〇名の組合員が侵入して泊り込み、さらに、資材部応接室にも、原告鈴木調布支部支部長、吉田同支部書記長を含む約一〇名の組合員が侵入し、守衛の警告を無視して泊り込んだ。

4  五月三一日も調布工場は全く操業できなかった。

三〇  事件<38>(五月三一日、厚木工場)

(証拠略)並びに弁論の全趣旨によれば、五月三一日午前九時三〇分ころから午前一一時三〇分ころにかけて、原告藤原執行委員長の指揮のもとに約七〇〇名の組合員が厚木工場の構内広場等に侵入して組合集会を行ない、夜には約二〇名の組合員が同工場食堂に侵入して泊り込んだことが認められる(ただし、右事実中、同日、組合が厚木工場の構内広場等で集会を行ない、組合員が同夜同工場食堂に泊り込んだことは、当事者間に争いがない。)。

三一  事件<13>(六月一日、調布工場)

(証拠略)並びに弁論の全趣旨によれば、次の事実が認められる(ただし、次の事実中、六月一日、組合が調布工場において正門でスクラムを組んでピケッティングを行ない、裏門、コイル各門でそれぞれピケッティングを行なったこと、職制及び新組合員が裏門の塀を乗り越えて入構し製品を搬出したこと及び同日夜組合員がバリコン工場三階に泊り込んだことは、いずれも当事者間に争いがない。)。この認定を左右するに足りる証拠はない。

1  六月一日午前七時三〇分ころから、調布工場において、組合員らがピケッティングを始め、午前八時ころには正門で約一三〇名の組合員がスクラムを組み、裏門、コイル各門には約二〇名が見張りについて以後出勤して来た職制、非組合員らの入構を阻止する態勢を続けた。原告鈴木調布支部支部長は、表面処理工場屋上からマイクを使うなどして右スクラム等の指揮をとり、吉田同支部書記長も右指揮をとった。

2  午後七時ころ、吉井部長以下職制、非組合員ら約二〇〇名が正門前に来て、製品を搬出するために入構を要求した。しかし、組合員らは、両開きの門扉を鉄鎖で連結緊縛して約四〇センチメートルの間隔を残して閉めたままでこれを開けることを拒み、その内側に約二〇名でスクラムを組んで入構を阻止した。

さらに、職制、非組合員らは、ピケッティングが一〇名余と手薄になっていた裏門に到り、職制が塀を乗り越えて入って裏門の門扉を開放し、コイル製品倉庫へ入って段ボール箱入りの製品を右倉庫から搬出し始めた。しかし、原告鈴木調布支部支部長が表面処理工場屋上からマイクを使って工場近くの寮に居る組合員らに直ちに応援に駆けつけるよう指令し、これに応じた者など次第に数が増えてきた組合員らが倉庫入口に群がり、搬出を押しとどめようとした。そこで、職制らは、組合員の頭越しに段ボール箱を手渡すなどしながら裏門近くまで運び、裏門には既に多数の組合員がスクラムを組んで通過させないため、その北側の北側非常門附近の塀越しに外で待機していた者に段ボール箱を手渡すなどして搬出した。

右搬出作業は、これを阻止するために駆けつける組合員がさらに増えてきたため、三〇分ないし一時間位しか行なえなかった。搬出した製品は、ポリバリコン、コイル等であり、いずれも在庫に対する割合は一〇パーセント以下で予定していた数量の一部にすぎなかったが、そのうち良品を選別して直ちにメーカーに納品した。

3  右の倉庫入口付近の揉み合いで組合員三名が手足に全治一日程度の挫傷等の軽傷を負ったが、吉田調布支部書記長は、後刻本社に赴き、職制が組合員に重傷を負わせたと言って会社側を非難した。

4  同日夜も、約一〇〇名の組合員がバリコン工場三階に侵入して泊り込んだ。

5  六月一日も調布工場では生産のための操業は全くできなかった。

三二  事件<39>(六月一日、厚木工場)

(証拠略)並びに弁論の全趣旨によれば、原告藤原執行委員長の指揮のもとに、約七〇〇名の組合員が六月一日午前九時ころから厚木工場構内に侵入して、午後五時ころまでの間に再三、同工場南側広場等で集会を開き、同日夜は約一〇名の組合員が本館食堂内に侵入して泊り込んだことが認められる(ただし、右事実中、同日午前九時三〇分ころ、組合が厚木工場構内で集会を開き、夜十数名の組合員が食堂に泊り込んだことは、当事者間に争いがない。)。

三三  事件<14>(六月二日、調布工場)

(証拠略)並びに弁論の全趣旨によれば、次の事実が認められる(ただし、次の事実中、六月二日、組合が調布工場の正門でスクラムを組んでピケッティングを行ない、裏門、コイル各門でピケッティングを行なったこと及び同夜組合員がバリコン工場に泊り込んだことは、いずれも当事者間に争いがない。)。この認定を左右するに足りる証拠はない。

1  六月二日、調布工場において、原告鈴木調布支部支部長及び吉田同支部書記長の表面処理工場二階屋上からの指揮のもとに、午前七時ころからピケッティングを開始し、午前八時三〇分ころには正門に約四〇〇名、裏門に約三〇名、コイル各門には各約二〇名の組合員がスクラムを組んでピケッティングを行ない、出勤して来る職制、新組合員、非組合員の入構を阻止する態勢を続けた。また、正門の門扉をその横の鉄柵に約一〇本の赤旗を縛りつけて掲げた。

2  午後零時四五分ころ、組合は、外部支援団体員や弁護士を、守衛の求める入構手続をとらずに構内に招き入れた。

3  午後七時ころ、約二〇〇名の職制、新組合員及び非組合員らが正門前及び裏門に来て、製品を搬出するために入構を要求した。しかし、原告鈴木調布支部長らは、右1のとおり前日より人員を増やすなどして強化したスクラムの態勢のままでこれを解かず、正門の門扉も約四〇センチメートルの間隔を残して閉めたままでこれを開けることを拒み、入構を阻止した。結局、約三〇分後に職制らは入構をあきらめて引き上げた。

4  同日夜も約一〇〇名の組合員がバリコン工場三階に侵入して泊り込んだ。

5  六月二日も調布工場の操業は全くできなかった。

三四  事件<15>(六月三日、本社)

(証拠略)並びに弁論の全趣旨によれば、六月三日午前零時三〇分ころ、山崎道代調布支部執行委員の率いる約三〇名の組合員が本社社屋に来て、その正面の玄関扉ガラス、窓ガラス、営業部室、応接室その他の各室の窓ガラス、外壁、玄関前の支柱及び床等に、「出ていけ三井」、「春闘勝利」、「定額回答粉砕」、「要求貫徹」等と大書きした縦約三六センチメートル、横一二約(ママ)センチメートルのビラを合計約一五〇枚を貼付したこと、そこで、会社では、右ビラの一部を剥がしたこと、ところが、午前四時四〇分ころ、再度同委員以下の約二〇名の組合員が本社社屋に来て、前記箇所等に前記同様のビラを約一〇〇枚を貼付したこと、そのうち、玄関前の支柱等鉄製部分は、ビラを剥がした跡に赤錆を生じたことが認められる(ただし、右事実中、六月三日に山崎道代執行委員以下約三〇名の組合員、約二〇名の組合員が二回にわたり本社社屋に来て、本社社屋正面の玄関扉ガラス、窓ガラス、支柱等に一回目に約一五〇枚、二回目に約一〇〇枚のビラを貼付したことは、当事者間に争いがない。)。

三五  事件<16>(六月三日、調布工場)

(証拠略)並びに弁論の全趣旨によれば、次の事実が認められる(ただし、次の事実中、六月三日に組合員が調布工場正門においてスクラムを組んでピケッティングを行ない、裏門、コイル各門でピケッティングを行ない、組合員及び外部からの応援者らが工場構内でデモ行進を行なったこと並びに同日夜も組合員がバリコン工場三階に泊り込んだことは、いずれも当事者間に争いがない。)。この認定を左右するに足りる証拠はない。

1  六月三日も、調布工場において、原告鈴木調布支部支部長及び吉田同支部書記長の指揮のもとに、午前七時三〇分ころから、正門には約一〇〇名の組合員がスクラムを組み、その他の各門にも各十数名の組合員が配置されて、ピケッティングを行ない、終日、出入構を阻止する態勢を維持した。

2  そして、組合は、会社が「社員以外の者許可なく構内への出入を禁ずる」旨の工場長名の看板を正門前に立てていたのに、これを無視して、午後四時四〇分ころ、支援団体員約二〇〇名を入構させ、これに、ピケッティングをしていた組合員、外部のビラ配り等から帰って来た組合員とを合わせた約五五〇名で、午後六時四〇分ころから、バリコン工場前庭で集会を行なった。続いて午後七時三〇分ころまで、スクラムを組み、笛を吹き、ワッショイ、ワッショイの喚声をあげて、構内でジグザグデモを行なった。

3  同夜原告鈴木調布支部支部長及び吉田同支部書記長を含む組合員約八〇名がバリコン工場三階に侵入して泊り込んだ。

4  この日も全く操業ができなかった。

三六  事件<17>(六月四日、調布工場)

(証拠略)並びに弁論の全趣旨によれば、次の事実が認められる(ただし、次の事実中、六月四日、調布工場において、組合が正門、裏門、コイル各門でスクラムを組んでピケッティングを行ない、集会を行なったこと及び組合員が同夜バリコン工場三階に泊り込んだことは、いずれも当事者間に争いがない。)。この認定を左右するに足りる証拠はない。

1  六月四日、調布工場においては、組合は、小畑支部執行委員の指揮のもとに、午前七時ころから、正門で約六〇名の組合員が、その他の各門で合計約四〇名の組合員がスクラムを組んでピケッティングを行なった。

2  午前七時五〇分ころから午前一〇時三〇分ころまでと、午後二時ころから午後四時二〇分ころまで食堂ホールに入って中央委員会を開き、午前一〇時四〇分ころから午前一一時四〇分ころまでバリコン工場三階に入って交代で職場集会を開いた。その間、警備員が要求した入門手続を無視して外部支援団体の者六名を構内に招き入れた。午後三時ころから午後六時ころまで組合員約六〇〇名がバリコン工場三階において全体集会を開いた。右集会の間も、各門の見張りは続けていた。

3  小美濃調布支部副支部長は、午後七時三〇分ころ、警備員の制止警告を無視して、正門の門扉を約五〇センチメートル開けた状態で鉄鎖で縛って固定した。

4  同日夜も、原告鈴木調布支部支部長、吉田調布支部書記長の指揮で、組合員約一二〇名がバリコン工場三階に泊り込んだ。

5  六月四日も調布工場は全く操業できなかった。

三七  事件<40>(六月四日、厚木工場)

(証拠略)並びに弁論の全趣旨によれば、原告藤原執行委員長の指揮のもとに、約七〇〇名の組合員と若干名の支援団体員とが厚木工場構内に侵入して組合の全体集会を開いたことが認められる(ただし、右事実中、同日、組合が同工場において集会を行ない、そこに支援組合幹部も出席していたことは、当事者間に争いがない。)。

三八  事件<18>、<19>、<20>(六月五日ないし七日、調布工場)

事件<18>についての被告の主張のうち、組合が六月五日になおピケッティングを実施し入構を阻止していたことについては、これを認めるに足りる証拠がない。

また、(証拠略)並びに弁論の全趣旨によれば、組合は、六月五日、六日及び七日にいずれも調布工場正門鉄製門扉の縦桟に赤旗一八本を縛りつけて立てていたこと(事件<18>、<19>、<20>)が認められるが、その各日ごとに新たに右赤旗を立てたことを認めるに足りる証拠はなく、六月五日又はそれ以前から同月七日まで引続き存置されていたものと推認される。

なお、右赤旗によって門扉の開閉に支障があったことについては、これを認めるに足りる証拠がない。

第五  そこで、以上認定した事件<1>ないし40中(ママ)の各事実自体が被告主張の就業規則に当たるか否かについて検討する(各事実が就業規則に当たる場合に、その責任を原告ら個人に帰することができるか否かについては、さらに第六において検討する。)。

一  次の会社就業規則の規定があることは、当事者間に争いがない。

五九条 次の一つにあてはまるときは、ゆし退職、またはちょう戒解雇とします。事情によっては減給または出勤停止にすることがあります。

四号 暴行やおどし、そのほか不当な手段をつかってほかの人の仕事を妨げ、または妨げようとしたとき。

五号 会社やほかの人を中傷して信用を失わせたり、名誉を傷つけたとき。

一三号 そのほか、それに準じた行いのあったとき。

二  組合加入勧誘、朝礼妨害、中傷ビラ配布について

1  組合加入勧誘(事件<21>、<27>)について

右各勧誘行為の程度、態様等は、前記第四の二、九のとおりであって、それ自体直ちに懲戒理由としてとり上げるべき程に規律を乱した行為であるとは認められず、未だ懲戒理由には当たらないものというべきである(なお、それらを原告藤原の責任に帰し得ないことも、前記各説示したところから明らかである。)。

2  朝礼妨害(事件<26>)について

右朝礼妨害は、前記第四の八のとおり、厚木工場における朝礼において、鈴木工場長が従業員に対して「会社は、誠心誠意できる限りの回答を行なったのであるから、生産目標の達成に向けて協力してほしい。」などと訓示したのに対して、組合専従であって本来朝礼とは関係のない原告藤原が「質問」、「質問」と連呼して以後の朝礼を妨げ、それと相応じて組合員が工場長の退出を阻止しようとしたものであり、会社の規律を乱したものというべきである。

しかしながら、春闘要求の争議中に、厚木工場長の地位にある者が始業時の朝礼の場において従業員(その過半数は、厚木工場における組合の組織率からみて組合員であったと推認される。)に対して直接に、会社回答の正当性を訴え、妥結を訴えることは、前年に確認された朝礼で組合批判をしない旨の合意がなお効力を有していたか否かにかかわりなく、穏当を欠く行為であり、これに対して原告藤原が質問、抗議したことにも理由がないわけではなく、また、原告藤原の右行為によって会社の業務が阻害されたとしても、僅かな程度であったものと推測されるから、懲戒理由としてとり上げるべき程に会社の規律を乱したものとは認められず、未だ懲戒理由には当たらないものというべきである。

3  中傷ビラ配布(事件<34>)について

右ビラの記載は、前記第四の二一のとおり、事実に反し、又は事実を誇張したものであって、それが争議中の組合として会社の姿勢を批判する趣旨で記載され、かつ、右ビラが組合員に対して配布されたものであることを考慮しても、許容し得る限度を超えており、中傷にわたるものと認められるから、就業規則五九条五号の懲戒理由に当たるものというべきである。

三  座り込み、集会、デモ、泊り込み、ビラ貼付、赤旗等について

1  企業は、その構成員に対し、企業秩序に服することを求めることができ、その一環として企業の所有し管理する物的施設を許諾された目的以外に利用してはならない旨を指示、命令し、これに違反する行為をする者に対しては、その中止を求め又は制裁として懲戒権を行使することができるものと解される。

ところで、企業に雇用されている労働者は、企業が所有して管理する物的施設の利用を予め許容されている場合が少なくないが、この許容は、特段の合意がない限り、雇用契約の趣旨にしたがって労務を提供するために必要な範囲において、かつ、定められた企業秩序に服する態様において利用するという限度にとどまるものであり、労働組合又はその組合員であるからといって、企業の許諾なしに右限度及び範囲を超えて物的施設を利用する権限を有するものとはいえない。もっとも、本件の組合のようないわゆる企業内組合は、企業の物的施設を組合活動の主要な場とせざるを得ないから、その活動について右物的施設を利用する必要が大きいことは否定できないが、労働組合の活動による企業の物的施設の利用は、本来は、使用者との合意に基づいて行なわれるべきであり、単に、利用の必要性が大きいということから、労働組合又はその組合員が企業の物的施設を利用し得る権限を取得したり、企業が労働組合又はその組合員の右利用を受忍すべき義務を負うべきものではない。労働組合又はその組合員が企業の許諾を得ないで企業の物的施設を利用して組合活動を行なうことは、その利用を許さないことが使用者の当諸物的施設について有する権利の濫用であると認められるような特段の事情がある場合を除き、使用者の権限を侵害し、企業秩序を乱すものであって、正当な組合活動として許容されるところではない。そして、そのことは、労働組合が争議行為中であっても、基本的には異ならず、労働組合が争議行為中であることは、使用者に権利の濫用があるか否かを判断するに当たって考慮すべき一つの事情にとどまるものというべきである。

2  本件においても、会社は、その従業員に対して、予め、雇用契約の趣旨にしたがって労務を提供するために必要な範囲において、かつ、その企業秩序に服する態様で利用するという限度において、会社の物的施設の利用を許容していたものと認められるが、会社が従業員に対して右限度及び範囲を超えて一般的に会社施設の利用を許容していたこと、あるいはその旨の合意の成立していたことについては、これを認めるに足りる証拠はない。却って、(証拠略)によれば、組合は昭和四五年中から、集会、デモ等を会社施設(庭を含む)内で行なうに当ってその都度会社の使用許可を得ていたが、四六年春闘においても争議行為が激化するまではそうしていたものであり、例えば、組合は、会社から、調布工場食堂を五月六日から同月二二日まで昼休みを除く午前八時から午後五時まで使用するについて許可を得ており、また、本件争議中の四月二三日に調布工場内の社屋に懸垂幕を垂らすことも許可を得ていたことが認められる。したがって、本件のような組合の集会、構内デモ、泊り込み、ビラ貼付、門・柵・屋上等の赤旗掲揚等の会社施設の利用は、その利用について会社の個別の許可がない限り、その権限を侵害するものとして、禁じられていたものと解される。現に、前記第四の各事実及び(証拠略)によれば、本件のストライキ中、組合事務所以外の会社施設内への立入り、社屋内での泊り込み等については、会社がしばしば文書で組合に抗議していたにもかかわらず行なわれたものであり、ビラ貼付、赤旗掲揚、泊り込みなどについても、その場で職制、守衛の制止を振り切って行なわれたものがあることが認められる。

以上によれば、右各行為が会社の意思に反する無許可のものであり、組合側がそのことを知悉していたことは明らかである。

3  座り込み(事件<3>)について

右座り込みは、前記第四の一〇のとおり、団交が行なわれていた本社二階講堂前の廊下等に組合員多数が座り込むなどして、会社側団交委員の退出を困難にし、事実上組合が集団の威力をもって団交の継続を強要し、圧力をかけたものであり、それを許さなかったことが会社の権利濫用であると認められるような特段の事由は認められない。したがって、右座り込みは、違法なものであり、就業規則五九条四号、一三号の懲戒理由に当たるものと認められる。

もっとも、前日来会社側が団交時間の制限を申し入れていたうえ、会社側の篠原団交委員長が途中から所用で退席したため、組合側は、団交が打ち切られるものと考え、これを阻止するため急遽右座り込みに出たものであり、会社側が団交継続を明らかにすると、これをやめたのであるから、その事情も斟酌するのが相当である。

4  集会(事件<3>、<4>、<5>、<16>、<17>、<31>、<33>、<38>ないし<40>)について

事件<3>、<4>、<31>、<38>ないし<40>の各集会の状況は、前記第四の一〇、一二、一五、三〇、三二、三七のとおりであって、これらは、本社、調布工場、厚木工場における組合員の決起集会、全体集会等である。いずれも、かなり大規模なもので、相当長時間に及んだものもあり、四六年春闘中に闘争方針の決定などのために開かれ、組合として必要な集会があったことを考慮しても、その規模、態様からして違法であることは免れず、これらを許さなかったことが会社の権利濫用であると認められるような特段の事由は認められない。したがって、右各集会は、就業規則五九条四号、一三号の懲戒理由に当たるものと認められる。なお、事件<3>の中庭における集会は、前記3のとおり団交の継続に圧力をかけるために行なわれた団交会場前の廊下等の座り込みに関連して開かれたものであり、これと一括して違法性の程度を評価すべきものである。また、厚木工場における事件<31>、<38>ないし<40>の各集会は、非組合員の操業中に開かれたものと推測されるが、厚木工場の組合組織率からみて、操業中の者はあまり多くはなく、したがって、それ自体による業務阻害の程度はそれ程大きなものではなかったことが推測されるから、その点は斟酌すべきである。

次に、調布工場における事件<5>、<16>、<17>、厚木工場における事件<33>の各集会の状況は、前記第四の一六、一九、三五、三六のとおりであるが、組合が後記ピケッティングによって出入構を阻止して終日全く操業が停止し、工場施設に対する会社の管理がほとんど排除された状態において、右各集会は開かれたのであるから、これらを施設の無断使用として別個独立に取り上げる実質的理由は乏しく、後記ピケッティングの違法性を評価するに当たりこれらも考慮すれば足りるものである。

5  デモ(事件<4>、<16>、<22>、<25>、<31>、<33>)について

労働組合が争議中に行なうデモは、組合の意思、要求の表現の重要な手段であるから、それが企業の施設内でなされる場合であっても、一律一概に禁ずべきことではなく、労働組合において、団結を誇示し、要求を表現する手段としてデモ行進をする必要があり、整然とかつ静穏になされ、業務を阻害する程度が著しくないものであるときには、企業がこれを禁止することが権利の濫用となることもあるというべきである。

しかし、本件の事件<4>、<22>、<25>、<31>の各デモの状況は、前記第四の三、六、一二、一五のとおりであり、調布工場、又は厚木工場においてそれ程の長時間ではなかったが、多数の組合員がワッショイ、ワッショイの喚声をあげるなどしながらジグザグにデモ行進したものであり、いずれも喧騒を極め、非組合員等の業務にも妨害となったものと推認されるから、このような形態のデモまで会社が許容しなければならないものとは解し難く、これらを許さなかったことが会社の権利濫用であると認められるような特段の事由も認められない。したがって、右各デモが就業規則五九条四号、一三号の懲戒理由に当たることは明らかである。

次に、事件<16>、<33>の各デモは、前記第四の一九、三五のとおり、後記ピケッティングによる操業停止中に行なわれたもので、これらを(ママ)施設の(ママ)無断使用して別個独立に取り上げる実質的理由は乏しく、後記ピケッティングの違法性を評価するに当たりこれらも考慮すれば足りるものである。

6  泊り込み(事件<5>ないし<14>、<16>、<17>、<32>ないし<39>)について

事件<37>ないし<39>の厚木工場における各泊り込みの状況は、前記第四の二八、三〇、三二のとおりであって、右各泊り込みは、会社の施設を許可なく使用して根拠なく行なわれたものであり、違法であることを免れず、これらを許さなかったことが会社の権利濫用であると認められるような特段の事由も認められない。したがって、右各泊り込みは、いずれも就業規則五九条四号、一三号の解雇理由に当たるものと認められる。

次に、事件<5>ないし<14>、<16>、<17>、<32>ないし<36>の各泊り込みの状況は、前記第四の一六ないし二七、二九、三一、三三のとおりであるが、これらは、組合が後記ピケッティングによって操業を阻止しようとしたことに伴って、その実効を確保するために行なったものと認められるから、これらを施設の無断使用として別個独立に取り上げる実質的理由は乏しく、後記ピケッティングの違法性を評価するに当たりこれらも考慮すれば足りるものである。

7  ビラ貼付(事件<1>、<2>、<15>、<22>、<28>、<30>)について

争議中の組合員が争議中であることを明示し、自己の要求を訴えるため、ビラやステッカーを企業の施設内に貼ることは、全てが一律一概に禁じられるべきものではないと考えられる。

しかしながら、本件の右各事件のビラ貼付の状況は、前記第四の三、七、一一、一四、三四のとおり、枚数も多く、貼付した場所もおよそ適当でない箇所であり、貼り方も異常であって、組合の訴えの必要から貼付したというよりも、むしろ会社を困惑させ、あるいは挑発する意図をもって、場所、態様を選んで貼付したとみられてもやむを得ないところがあり、その貼付に用いた糊に鉄を腐食させる化学薬品を混入したことまでは認められないにしても、鉄製部分の貼った跡には、赤錆が生じるなどの物的損失も現実にあったのであるから、会社がこれらを許容しなければならないものではない。右各貼付を許さなかったことが会社の権利濫用であると認められるような特段の事由も認められない。したがって、右各ビラ貼付は、いずれも就業規則五九条四号、一三号に当たるものと認められる。

8  赤旗、立看板等(事件<4>、<14>、<18>ないし<20>、<23>、<24>、<29>ないし<33>、<35>、<36>)について

一般に労働組合が赤旗を掲げたり、立看板等を立てるのは、争議中であることを誇示するためであると考えられ、企業の施設を利用してこれがなされるのを禁ずるについては、表現の自由との兼ね合いを考えるべきであるが、本件の事件<23>を除く右各事件において組合が赤旗を掲げたり、立看板等を立てた状況は、前記第四の五、一二ないし一五、一七、一九、二三、二五、三三、三八のとおりであって、掲揚した赤旗、立看板等の数は決して少なくはなく、また、社屋の塔屋や、屋上に掲揚したのは、工場全体を組合が支配したように印象づけるものであって、会社がこれらを許容すべきものということはできず、これらを許さなかったことが会社の権利濫用であると認められるような特段の事由も認められない。したがって、右各事件における赤旗を掲げたり、立看板等を立てたことは、いずれも就業規則五九条四号、一三号にいう懲戒理由に当たるものと認められる。

ただし、事件<23>の赤旗掲揚の状況は、前記第四の四のとおりであって、掲揚した赤旗が二本に過ぎず、当時の闘争の状況等も総合して検討すると、懲戒理由として取り上げるべき程に会社の規律を乱したものとは認められず、未だ就業規則五九条四号、一三号の懲戒理由に当たらないものというべきである。

四  ピケッティング(事件<4>ないし<14>、<16>、<17>、<22>、<25>、<29>、<31>ないし<33>、<35>、<36>)について

1  いわゆるピケッティングは、本来、ストライキを行なっている労働者がストライキの補助手段としてこれを維持し、強化するために、労務を提供しようとする労働者、業務を遂行しようとする使用者側の者、または出入構しようとする取引先に対して、見張り、呼びかけ、説得して制止する行為である。そして、ピケッティングが平和的説得の範囲にとどまる限り違法の問題は生ぜず、他方、暴行、脅迫等をもって使用者の業務遂行、物的施設に対する支配を妨害することが許されないことはいうまでもないが、暴行、脅迫に至らない程度の、人垣や障壁等による物理的な阻止や有形力の示威による心理的抑圧などが許されるか否かは、そのピケッティングの対象ないし目的、態様、程度、それがなされるまでの争議の経過、現実の影響等の諸般の事情を考慮して、判断されるべきものと解される。

2  そこで、まず、本件において組合が行なった各ピケッティングの対象ないし目的についてみると、組合は、その所属する組合員でストライキから脱落した者を対象とし、その労務提供を阻止する目的で、右ピケッティングを行なったものではない。組合は、当初から、専ら調布工場及び厚木工場内で就労しようとする新組合員を含む非組合員、業務を遂行しようとする会社側の職制、あるいはそこに出入構しようとする取引業者を対象として、その出入構を阻止し、これにより単なる所属組合員の労務不提供による影響を超えて、工場操業を停滞させあるいは停止させることを目的として、本件各ピケッティングを行なったものである。本件においては、組合員が行なった全面ストライキのほか泊り込みの大部分は、ピケッティングの右目的を達するための、いわば補助的手段となっていたのである。

3  次に、本件の各ピケッティングの態様、程度等についてみると、事件<22>、<25>、<29>、<31>のピケッティングの態様、程度等は、前記第四の三、六、一三、一五のとおりであり、いずれも非組合員等の出勤就業後になされたもので、実際の出入構阻害の程度はそれ程大きくなかったと推認される。

これに反し、事件<4>のピケッティングの態様、程度等は、前記第四の一二のとおりであり、短時間とはいえ、出勤時間を狙い、その間スクラムを組んで正門のみならず裏門をもほぼ閉塞するという状態を生じさせ、正常な業務の稼働の開始を遅らせたものである。さらに、事件<5>ないし<14>、<16>、<17>、<32>、<33>、<35>、<36>の各ピケッティングの態様、程度等は、前記第四の一六ないし二〇、二二ないし二七、二九、三一、三三、三五、三六のとおりであり、門扉を約五〇センチメートルの間隔を残して閉め、あるいは多数の組合員が門の内外に多層のジグザグのスクラムを組むなどしてピケッティングを行ない、通路を閉塞し、入ろうとする者と多数の力で揉み合い、押し返すなどの有形力まで用いて、職制、新組合員、非組合員の職務のための出入構をごく少数の例外を除いて阻止、妨害し、その間、連日行なわれた組合員の泊り込み(事件<5>ないし<14>、<16>、<17>、<32>ないし<36>)とあいまって、その実施期間中(調布工場において五月二四日から六月四日まで、厚木工場において同月二四日、二五日、二七日、二八日の各日)、工場の生産のための操業を全く停止させ、両工場施設全体を組合が占拠、支配したといっても過言でないような状態を生じさせたのである。このようなピケッティングの連続は、労働争議の態様、程度としても、極めて過激なものであったというべきである。

4  右の点に関連して、争議の経過、特にいわゆる一発回答の問題について検討しておく。

森部社長は、四六年春闘に先立ち昭和四五年一二月に、賃上げ等の額については最初から可能な最高限度の額を最終回答として提示し、以後の交渉においては上積みの回答をしないという趣旨の、いわゆる一発回答の方針を決定してその旨宣言し、これが四六年春闘に臨む会社の基本姿勢となった。もとより、賃上げ要求等の春闘に対して、賃上げ額はもちろん、一発回答とするか後の交渉による上積みの余地を残した回答とするか等も、基本的には個々の企業の判断に委ねられているところであって、会社が右方針を決定し、当初に前記内容の回答をした後はその上積み回答をしないで組合に妥結させたこと自体をとらえて、会社の態度に誤りがあったとか、その後も上積みの回答をすべきであったなどと断ずることはできないであろう。しかし、四六年春闘が長期化したことについては、会社の態度もその一因となったものといわなければならない。すなわち、当時、春闘要求に対する右の一発回答のような回答は業界において例外的なものであり、同業他社の第一次回答はその後の交渉による上積みの余地を残して行なわれるのが通常であったと推認されるうえ、会社と組合の間で前年に行なわれた年末一時金の交渉においても、組合はストライキ等の争議行為を行なって会社から上積み回答を引き出した経過があったのである。したがって、四六年春闘に先立って会社が一発回答の方針を宣言していたとはいえ、組合として会社から要求額に近い第一次回答を引き出すためあるいは会社の回答を確認した後にその上積みの回答を引き出すためにストライキを行なったこと自体には、特段の問題はないと考えられ、その後会社が一発回答の方針を貫いたのに対して、組合が右回答に応諾しないでピケッティング等の前記各争議行為に踏み切り春闘を長期化させたことにも無理からぬところがあると認められる。会社としても、少なくとも初めて一発回答の方針を打ち出した四六年春闘においてこれを貫くときは右春闘が長期化するかもしれないことも考慮に入れて右方針を決定したものと推認される。ところが、会社は、ただ一発回答の方針を貫いただけでなく、膠着状態が約一か月続いた後でさらに、三六協定、争議協定の締結を、付帯要求項目の内の一つである中間採用者の資金是正の実施(それも組合の要求とは隔りのあるもの)の前提条件として持ち出すなどして、一方的なペースで押し切ろうという態度に出たのである。このような会社の態度に対抗して、組合がピケッティング等の闘争を継続して春闘が長期化した一面があることは、否定することができない。

しかしながら、組合は、鈴木部長解雇要求という本来労働条件に関しない事項についてもストライキを行ない、春闘要求についても、会社の説明する経営事情を理解しようとせず、会社に誠意がないと決めつけて、闘争を長期化し、その間、闘争の態様、程度等も過激にしていったものであり、組合には実力行使を至上としていると評されてもやむを得ない面があったものである。そうすると、そのような闘争を行なった組合に責任がないとは到底いうことができず、右のような会社の態度を考慮しても、本件闘争のような激しいピケッティングを是認することはできない。

5  さらに、組合の争議行為が会社に与えた影響について検討する。

(証拠略)並びに弁論の全趣旨によれば、次の事実が認められる。

(一) 組合が四六年春闘において長期にわたりストライキを行ない、特に調布工場において重点部門ストライキを、調布工場、厚木工場において時差部門ストライキを、五月一九日から六月四日まで右両工場においてほとんど連日全面ストライキをそれぞれ行なったことから、とりわけ調布工場においては五月二四日から六月四日まで生産操業が全く停止され、それ以前に加工されていた製品等の搬出すらほとんど阻止され、そのために、会社はその期間内において生産を停止ないし減少しただけでなく、その後も長期にわたって取引先に対する信用を著しく失墜し、取引の減少を来した。

すなわち、会社の供給するバリコン、コイル、チューナー、抵抗器等の部品を使用する大手電機メーカー、カメラメーカーは、会社から供給が途絶したので生産ラインの停止ないし中断、生産ラインの計画変更等を来たし、生産・販売に大きな打撃を受けた。そのため会社にはペナルティ、単価切下げ等の請求があったばかりでなく、安定供給に対する不安から、発注を取消して他社発注に切り替え、あるいはそれまでの会社に対する専属的発注を他社との複数発注に切替えるなどして、会社製品の業界におけるシェアーは大幅に低下した。

(二) 具体的には、ポリバリコンについては、昭和四五年から昭和四七年までのわが国全体のラジオ、テープレコーダー(とくにラジオ付カセットテープレコーダー)の出荷台数は大幅に増加し、それにつれてバリコンの全生産量も昭和四五年前半を一・〇〇として同四七年後半には一・四四と急増したが、会社のポリバリコンの売上数量は同期間に一・〇〇から〇・九六に減少し、業界での会社のシェアーは昭和四五年の三二パーセントから昭和四七年の二六パーセントに低下した。従前ポリバリコン一〇〇パーセントを会社から買受けていた松下電器、九州松下、ソニー、クラウン、船井電機、東芝オーディオはいずれも二社購買となって昭和四六年一二月には(以下特に挙げなければ、同月におけるシェアーをいう。)、会社のシェアーがそれぞれ約九五パーセント、約九五パーセント、約二〇パーセント、約六〇パーセント、約八〇パーセント、約三〇パーセントに低下した。また、日立製作所、シャープにおける会社のシェアーも約一〇ないし二〇パーセント低下した。

(三) 次に、コイルについても、ラジオ、テレビの生産増加に応じて、わが国全体のコイルの生産数量は昭和四五年前半を一・〇〇として昭和四七年後半には一・七二と急増したが、会社のコイル売上数量は同期間に一・〇〇から〇・九六に減少し、業界に占める会社のシェアーも昭和四五年の一七パーセントから昭和四七年の一二パーセントに低下した。それまで会社に一〇〇パーセントの発注をしていたソニー、新東京無線も二社購買となって会社のシェアーがそれぞれ約二〇パーセント、約三〇パーセントに大幅低下した。九州松下、船井電機、松下電器、富士通、シャープにおける会社のシェアーも約五ないし三〇パーセント低下した。

(四) また、抵抗器については、当時はカメラの出荷動向や高級化、撮影機の輸出の好調等からわが国の抵抗器の需要は伸びており、これを背景に会社の抵抗器売上げも昭和四五年前半一・〇〇に対して、昭和四七年後半には一・四七となったが、旭光学、富士写真光機、キャノン、日本精密測器、ミノルタなど主要な得意先においては会社のシェアーが約一〇ないし二〇パーセント低下した。

(五) 八ミリ撮影機等に使用される小型モータについても、わが国におけるその生産は昭和四五年前半を一・〇〇とすると昭和四七年後半は一・九一と増加しているが、会社の小型モータ生産は同期間一・〇〇から〇・五四と低下し、業界におけるシェアーも昭和四五年の九パーセントから昭和四七年の三パーセントに低下した。

以上の事実が認められ、この認定に反する証拠はない。

もっとも、右(一)ないし(五)の会社のシェアーの低下については、組合の争議行為の影響だけでなく、同業他社の拡張、他社の新規参入等の業界の動きの影響もあったことが推認される。さらには、組合の争議行為によるシェアーの低下についても、正当な争議行為によるシェアーの低下の部分についてはもとより組合ないし原告らの責任に帰することはできない。しかしながら、それらの点を考慮に入れても、本件各ピケッティングによる違法な業務妨害が右シェアー低下の大きな原因となったものと推認される。

6  以上の次第で、事件<22>、<25>、<29>、<31>のピケッティングも含め、本件各ピケッティングは、前記第四で認定したとおり、いずれも単なる平和的説得の範囲を超えたところがあり、これらピケッティングの対象ないし目的、態様、程度、影響等の諸般の事情を考慮して検討すると、いずれも会社の規律を甚だしく乱したものといわざるを得ず、就業規則五九条四号、一三号の懲戒理由に当たるものと認められる。

第六  次に、原告らに対する本件解雇の当否について判断する。

一  原告藤原は、組合執行委員長として組合の最も重い地位にあった者であり、組合の本部、支部を通じてその地位に相応する影響力を有していたことが推認される。また、原告鈴木は組合調布支部支部長であったが、(証拠略)並びに弁論の全趣旨によれば、本件争議当時、組合の執行機関は、厚木本部に原告藤原を長とする執行委員会が、調布支部に原告鈴木を長とする支部執行委員会がそれぞれ置かれ、実際の運営はその両者が合同した合同執行委員会で決定され、実態は調布と厚木の二つの組合が共闘する形態であったことが認められ、その意味で、支部執行委員会にも相対的独立性があったことが窺われるから、原告鈴木は、調布支部における具体的戦術の決定、指揮等について事実上原告藤原以上に重い地位にあり、それに相応した影響力を有していたものと推認される。

ところで、右第五に違法と判断した事件<34>の中傷ビラ配布、事件<3>の座り込み、事件<3>、<4>、<31>、<38>ないし<40>の各集会、事件<4>、<22>、<25>、<31>の各デモ、事件<37>ないし<39>の各泊り込み、事件<1>、<2>、<15>、<22>、<28>、<30>の各ビラ貼付、事件<4>、<14>、<18>ないし<20>、<24>、<29>ないし<33>、<35>、<36>の各赤旗掲揚等、事件<4>ないし<14>、<16>、<17>、<22>、<25>、<29>、<31>ないし<33>、<35>、<36>の各ピケッティングは、いずれも四六年春闘における争議行為として行われたものであるところ、組合がスト権を確立した後は、ストライキの開始、打切り、態様等を決定する一切の権限が執行委員会及び支部執行委員会、あるいは合同執行委員会(一括して以下「執行委員会」という。)に委ねられたのであるから、この執行委員会がその権限に基づいて、ストライキはもとより、本件の各ピケッティング、デモ、集会、泊り込み、ビラ貼付、赤旗掲揚、ビラ配布等の争議行為を、企画、決定したうえ実施したものと推認される。

そして、原告藤原は、執行委員長として本社、厚木工場及び調布工場における組合の全争議行為について、その企画、決定及び実施の過程でその地位に相応して指揮・指導を行なったことが推認されるうえ、重大な違法行為である調布工場の事件<5>、<7>、<8>、<10>及び厚木工場の事件<22>、<31>、<33>のピケッティングをはじめとする前記各争議行為については、現場で実行行為に加わり率先指揮に当たったものである。また、原告鈴木は、調布支部支部長として、調布工場における全ての争議行為について、その企画、決定及び実施の過程でその地位に相応して指揮・指導を行なったことが推認されるうえ、調布工場における事件<4>ないし<14>、<16>のピケッティングについては常に現場で指揮して率先実行行為に当たり、その他の同工場における前記各争議行為及び事件<3>の争議行為にも関与したものである。

原告らは、その組合幹部個人の責任を追及することは許されないと主張するが、原告らの右指揮・指導及び実行関与についてその個人責任を追及できるものと解され、原告らの主張は採用することができない。

そうすると、原告藤原の右各行為が就業規則五九条四号、五号、一三号の懲戒理由に当たり、原告鈴木の右各行為が同条四号、一三号の懲戒理由に当たることは明らかである。

二  そして、原告らの右各違法行為のうちでも、各ピケッティング、特に泊り込みを伴う各ピケッティングは、その態様、程度、影響等の諸般の事情に照らし極めて悪質、重大なものであって、その他の前記各違法行為も併せ検討すると、原告藤原の右各行為、原告鈴木の右各行為は、それぞれ全体として正当な争議行為の範囲を著しく逸脱したものである。したがって、会社が、その規律保持上、原告らに対して最も厳しい懲戒解雇という処分をもって臨むことも、やむを得ないところであり、争議の長期化を招いたことについて会社にも一部責任があることを考慮しても、原告らに対して懲戒解雇を選択した会社の判断に誤りがあったとはいえない。

三  右の点に関して、原告らは、本件解雇は解雇権の濫用であると主張する。

しかしながら、労働組合の争議行為であっても、正当な争議行為の範囲を著しく逸脱したものに対しては、職場規律に違反した行為として懲戒解雇という処分を課すことが妨げられる理由はない。そして、前記のとおり、原告藤原は、執行委員長として本社、厚木工場及び調布工場における全争議行為について、その企画、決定及び実施の過程でその地位に相応して指揮・指導を行なったうえ、重大な違法行為である事件<5>、<7>、<8>、<10>、<22>、<31>、<33>のピケッティング等について現場で実行行為に加わり率先指揮に当たり、また、原告鈴木も、調布支部支部長として、調布工場における全ての争議行為について、その企画、決定及び実施の過程でその地位に相応して指揮・指導を行なったうえ、事件<4>ないし<14>、<16>のピケッティングについては常に現場で指揮して率先実行行為に当たったうえ、その他の前記各争議行為にも関与しており、このような原告らのそれぞれの行為は、いずれも全体として正当な争議行為の範囲を著しく逸脱したものである。したがって、前記第三の客観的経緯及び第五の四4の会社の態度等の事情を斟酌しても、原告らに対する本件解雇は相当なものと認められ、これが解雇権の濫用と認められるような特段の事由までは認められない。

四  次に、原告らは、本件解雇は不当労働行為であると主張する。

そして、(証拠略)の結果並びに弁論の全趣旨によれば、会社は、四六年春闘の終了後も、原告らの組合事務所に行くことを阻止しようとしたこと、いわゆる賃金カット協定(昭和四五年に締結されたもので、ストライキが行なわれた場合の賃金カットの対象を限定することを内容とするもの)を破棄通告したこと、就業規則を改訂したこと等のほか、四六年年末一時金闘争、四七年春闘において組合のストライキに対抗して行なわれたロックアウトに基づいて会社が賃金カットを行なったこと及び四六年八月以降の組合のワッペン着用等に対して会社が抗議警告等を行なったことが不当労働行為に当たるとして、昭和五〇年二月一八日、東京都地方労働委員会において救済命令が発せられたこと、以上の事実が認められる。のみならず、前記認定のような組合設立前の経過、四六年春闘中の会社の基本的態度等に徴しても、会社には、労使協調路線に反する組合の姿勢に反発し、四六年春闘において一発回答を行ない、これを貫徹したうえで、さらに本件解雇で追い打ちをかけて組合を屈伏させようとする意図が全くなかったとはいえない。

しかしながら、原告らの関与した前記各行為は、正当な争議行為の範囲を甚だしく逸脱し、企業の規律保持上、到底許されない程度のものであって、このような違法行為について責任ある者を企業から排除する必要があることは、一般的には優に是認し得るところであるから、本件解雇について不当労働行為の成立を認めることはできない。

第七  以上の次第で、原告らに対する本件解雇は有効であり、したがって、その余の点について判断するまでもなく、原告らの本訴請求はいずれも理由がないからこれを棄却し、訴訟費用の負担について民事訴訟法第八九条、第九三条を適用し、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 村田達生 裁判官 八木貴美子 裁判官 瀬川卓男)

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